【ネタバレあり】死神は音楽を好み、晴れを見上げる『死神の精度』【感想】
『オール讀物』2003年12月号から2005年4月号にて(その中の一篇だけは『別冊文藝春秋』第255号・2005年1月に)掲載されていた伊坂幸太郎さんの計6篇の短編。
それを群れとして作り上げた『死神の精度』を読み終えました。
本作には「死神」が存在している。
彼らは人間の世界に派遣され、調査対象である人間を一週間の中で観察し、死を見定める。対象者を「可」とした場合は八日目に死亡し、「見送り」とした場合は死なずに天寿を全うする事となる。そして、この「可」と「見送り」の明確な基準はなく、調査対象となる人間の基準に関しても興味がない、と言う。
どこか人間と似ているような気もしてくるのがこの死神の特徴で、「理解はしていないけれど、仕事だからやっている」という空気がひしひしと伝わってくる作品なのだ。
交差する人生の点も存在すれば、全く関係のない六つの人生が伊坂幸太郎さんによって描かれていく。
本作は、音楽が好きな死神たちの怠慢な仕事ぶりが垣間見える。
◇伊坂幸太郎によって描かれる死神
本作では死神の「千葉」が登場する。「千葉」の同僚も登場するが、苗字が町や市の名前であり、CDショップに集まったり、素手で人に触ろうとはしなかったり、と何とも死神と呼んでいいのか曖昧な奴らたちだ。
死神と言ったら、既存の想像図として顔は髑髏で、首を刈り取るに相応しい大鎌を握っていて、ケタケタと笑いそうなものを、ある程度の人なら持っていそうなものだ。
しかし、伊坂幸太郎さんの描く死神は、街中を歩いているどこかにいそうな等身大で登場する。それがまた奇妙でありながらも、この世界を成立させるには相応しくかつ愉快に伊坂幸太郎さん「らしさ」というもの明確に存在している。
死神と人間の会話というものは面白い。
調査の対象者として選ばれた「森岡」という人物と死神の「千葉」の会話で笑顔にさせてもらったシーンを紹介したい。
はじめのうちは、彼らの目を気にして、マスクをどうしようか、などと気にしていた森岡だったが、そのうちに料理に夢中になり、途中からはすっかり素顔を晒していた。舌を鳴らす。「これは」とフォークに刺した肉を頬張り、「やばいくらいに」と顎を動かし、「うますぎる」と呑み込んだ。
忙しなく咀嚼しながら、小刻みにうなずいている。
私はと言えば、相も変わらず、食事という作業に興味が持てないため、盛岡の食べる様子を観察しながら、丹念に味わうふりをした。
とりあえず、「これは」とフォークに刺した人参を頬張り、「やばいくらいに」と噛みながら、「うますぎる」と飲んだ。
「馬鹿にしてんのか?」それを見ていたらしい森岡は眉をしかめた。「人参じゃねえか」
(本編362pより)
背景をまず説明しよう。
この話は第五篇の「旅路を死神」にて描かれるもの。登場している「森岡」という人物は自身の母親を殺害したのちに、ついでにそこらへんにいた若者も殺害している。
そして指名手配されている「森岡」は死神の「千葉」と出会い、「千葉」の車で旅をする。
そんな奇妙な間の中に存在するこの会話には、死神らしさとか殺人犯らしさとかは無縁のように感じさせる。ああ、これが伊坂幸太郎か、と納得すらさせてくる。
引用させてもらった会話の中では、まるで「千葉」が何も知らない赤子が親の真似をするように、「森岡」の食事を観察し、行っている様子が描かれているようにも感じ取れる。
これがまた良くて、死神にとって人参は牛肉と大差なく、それほどまでに食事というものに関心がないのだな、というのも伝わってくる。さすが、伊坂幸太郎さんが描く死神だ。
「弱者ってのはたいてい、国とか法律に苛められるんだ。そいつを救えるのは、法律を飛び越えた男なんだってな。」(本編69pより)
伊坂幸太郎さんという作家は、ロマンを追求し、言葉にしてしまう作家でもある、と僕は捉えている。例えば、『陽気なギャングが地球を回す』では「犯罪の中の犯罪」を魅せつけてきた。
そうだ。伊坂幸太郎さんにはロマンがある。ロマンの塊だ。
上記の引用文は本作第二篇「死神と藤田」という物語の中で「藤田」というヤクザの中のヤクザに対して述べられた言葉だ。「藤田」は正に弱きを助け、強きをくじくという男そのものだ。
この物語で登場するのはヤクザの中のヤクザ「藤田」とその部下である「阿久津」。藤田が探しているヤクザの「栗木」。そして死神の「千葉」だ。
「藤田」は別の組である「栗木」の部下と揉め、「栗木」はその後、「阿久津」の兄貴分を殺している。「藤田」の場合は、「栗木」の部下が年寄りを路地裏に引きずり込み、金を奪う行為を目撃したために、それが許せるはずもなく、喧嘩をしたと述べている。
「栗木」の場合はそうではなく、言いがかりで「阿久津」の兄貴分が殺害されてしまっている。それが「藤田」にとって許せるはずもなく、「栗木」を一人で殺そうとしているのだ。
物語終盤で「藤田」の部下である「阿久津」が「栗木」に捕まってしまう。その隣には「千葉」も捕まってしまっている。死神も人間に捕まることだってある。
一番この物語で格好いいのは、この捕まった所で魅せつけられる。
場面は「阿久津」が殴られながらも「藤田」の電話番号を「栗木」に対し言わないようにしているところだが、「千葉」があっさりと伝えてしまうところ。
「藤田の電話番号を教えてやる」私はそう言った。(中略)おっさん何を考えてんだ、裏切るのかよ、と絶叫した。
私は暗記している携帯電話の番号を、口にする。阿久津が、子供が啼くような呻きを発し、それがおかしいのか離れた場所から誰かが笑う声もした。
坊主頭が、栗木を振り返り、うなずいた。そして、テーブルの上にある電話に手を伸ばすと、すぐにボタンを押した。「嘘だったら、ぶっ殺すぞ」と私に凄んだ。
「おっさん、裏切りやがったな」阿久津は、喉から血を出すかのようだ。
「てめえ」阿久津が奥歯を砕くような、顔になった。「それがこいつらの狙いなんだよ。藤田さんを殺してえのか」
私はそこで声を落とし、疑問を口にさぜるを得ない。「おい、藤田が負けるのか?」
「え?」と阿久津が目を見開く。
「おまえは、藤田を信じていないのか?」今まで散々そのことを、私に訴えてきたではないか。(本編90pより)
この言葉と会話がとてつもなく恰好良い。
「阿久津」にとって「藤田」は『本当の任侠の人』として捉えら、尊敬されている。
その「阿久津」が大勢の男に囲まれながら、「藤田」を庇っている。こんなに多かったら勝てはしない、と死んでしまいだろう、と思いながら電話番号を吐くことはなかった。
だが、死神である「千葉」は関係なく、電話番号を吐いてしまう。
死神なのだから、人間を売ったとか、嫌気がさして電話番号を教えたとか、そういう類ではなく「阿久津」が「藤田」は負けない、と言っていたことを何の疑いも、意味も理解しないままに記憶していたために、電話番号を教えてしまう。
弱気になっていた「阿久津」に、土壇場でそんな考えは思いつきはしない。考えは浮かばない。「藤田」が勝てるとは思えない。けれど、死神は違う。
信頼という人間らしい部分など微塵もない死神は、誰かの言葉を記憶しているだけなのだから、「勝てるんじゃないのか?」と問いかける。
「藤田さんが負けるわけがねえんだ」と「阿久津」が最後に口にする。
この死神は、良い死神であり、人に何かを与えているのだろう。それはロマンなのかもしれない。
◇「可」を押された者は必ず、哀しい結末を辿っている?
この物語で面白いのが、死神の「可」と「見送り」だ。
それが死神の仕事とされており、決まって彼らは対象者を「可」としている。
そうすることで「可」とされた対象者の人間は必ず八日後に死んでしまう。
そんな中で「千葉」は唯一「見送り」をした対象者がいる。
裏か表か。それで決めようと思った。「可」にすべきか、「見送り」にすべきか。彼女は死ぬのか、それとも寿命まで生きるのか。どちらにせよ、私にとっては大した違いはないのだし、コイントスで充分にも思えた。
硬化を見る。表だった。あれ、と私は首を傾げる。表の場合は、「可」にするつもりだったのか、「見送り」にするつもりだったのか、忘れてしまった。雨がさらに勢いを増してきた。それに小突かれるような気持ちで、もういいか、と決めた。いいか、「見送り」で。(本編47pより)
そんな適当でいいのか、死神。
思わずそう言ってしまいそうになる仕事ぶりだ。
この時に「見送り」になったのは、第一篇「藤木一恵」だ。彼女は後に第六篇「死神対老女」にて断片的にだが人生が語られている。
そんな彼女の人生は「遅咲きのアーティストだけど、わたしがまだ若い頃、二十代か三十代の頃かな、すごく話題になったんだから。でも、今も古びてないでしょ」と語られるほどなのだから、立派なものなのだったのだろう。いや、彼女の人生は主観的に捉えることは甚だ難しいのだが。
だが、きっと彼女は天寿を全うしたはずだ。
しかし、「可」とされた人物たちはどうだろうか。
決していい人生だったか、と言われたら難しい。これも主観的に語るものではないような気もする。
だが、哀しい結末なのは間違いない様に思える。
第二篇「死神と藤田」での担当者はヤクザの中のヤクザである「藤田」。
第三篇「吹雪に死神」での担当者は「田村」。
第四篇「恋愛で死神」での担当者は「荻原」。
第五編「旅路で死神」での担当者は「森岡」。
第六編「死神対老女」での担当者は「古川」。
本作では具体的な結末を意図的に書いていないように思える。
なので、どうなったか、ではなく、全体的にこうなったのかな、という推測でしか語れないところが面白い。それを知るのは死神だけなのだ。
「藤田」は部下を敵対している「栗木」の元で拷問され、大勢の中に殴り込みに行く。
「田村」は自身の息子を死に追いやった女性を殺そうと画策するが、その最中に夫を亡くす。
「荻原」は好きになった人を救うために死んだ。この時に助けたのが「古川」。
「森岡」は勘違いで母親と関係な一人を殺害する。
「古川」は多くの大切な人を無くしている(正し過去に起こった事なので間接的問題)。
出来事を整理するとこのようになっている。
第六篇で「千葉」が担当した「古川」に関して言えば、過去において間接的に関係していた死神によって不幸な出来事が連鎖的に起こってしまっている、というものであるので、哀しい結末を彼女自身が最終的に送ったのかは、判断しづらい。
しかし、
「そりゃ、死ぬのは怖いけどさ」と恐怖の欠片も滲まない口調で続け、「もっとつらいのは」と首を振った。「まわりの人間が死ぬことでしょ。それに比べれば自分が死ぬのはまだ、大丈夫だってば。自分の場合は、哀しいと思う暇もないしね。だから、一番最悪なのは」
「最悪なのは?」
「死なないことでしょ」彼女はアンテナを張るかのように、指を立てた。「長生きすればするほど、周りが死んでいくんだよね。当たり前のことだけど」
「その通りだ」
「だからさ、自分が死ぬことは、あんまり怖くないよ。痛いのとか嫌だけど、やり残したこともないしね」
「ないのか」
「あるかもしれないけど、それも含めて、納得かもしれない」
(本編316pより)
と「古川」自身が語っているので、現在進行形での悲しみはないのだろう。
そこから察するに、彼女は「見送り」になるのではないかな、と思ってしまう。
晴れも見れた「千葉」のことだ。コイントスをするまでもなく、太陽が表に現れたのだから、「見送り」でいいんじゃないか。
「古川」以外は、基本的に悲しみを纏った結末を描かれている。
死神の「可」はカナシミの「可」なのかもしれない。
◇終わりに
伊坂幸太郎さんが死神を描けば、同時に天使的な側面も存在するのだな、と感じました。