主観器官

孤独に言葉を編んでいる。

【ネタバレあり】作品自体が成長し、多角的に描かれる物語性『蒼穹のファフナー』【感想】

 2004年7月に放送をしていたアニメ『蒼穹のファフナー』がYouTubeで無料配信されているので、見直しました。公式がここまで大きく、EXODUSまで公開しているのは凄く新鮮で、そして11月にはシリーズ三期目の『蒼穹のファフナー THE BEYOND』二回目の先行上映が行われるそうです。その為の無料配信だと思います。

 

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 自分がこの作品に初めて触れたのが、小学校一年か二年生の頃になります。その時は全くこの作品の設定とか、心情とか全くわかっておらず、ただロボットのデザインが素朴だな、とかよく人が死ぬな、とか。漠然とそんな事を考えており、この物語を楽しめていなかったと思います。

 

 その「何となく」のまま、2015年には第二期である『蒼穹のファフナー EXODUS』を視聴しました。多分、その時も何か強いものを感じたわけではなく、漠然と見続けていたと思います。

 

 そんな自分が、今更こんな機会に見終えた『蒼穹のファフナー』。

 

 とても前を向き続け、失ったモノを大事にする物語なんだな、と思い知らされました。

 

 

◇難解な設定の上に、段階的に定まっていく作品

 

 挨拶代わりに「失ったモノを大事にする物語なんだな」と言いながら、初っ端で突っ込んでいく。良い点は他の方が多く語っているでしょうから、自分は粗探しという訳ではないんですが、気になった点をあげていく。

 

 映像やその中で描かれる表情などには、時代を感じる。なので、ここで躓いたりする人もいるのではないだろうか。この作品自体の構成がストーリー自体の流れはわかりやすいけれど、細かな描写や用語などの解説を懇切丁寧に挟んでくれるわけでもないので、疑問点が生まれやすい人は最後まで見られない可能性は大きい。

 

 序盤の構成がそもそも疑問で「現代の物語」というものに慣れてしまった人にはとっつきにくい面は重々あるだろう。

 

 見る側に努力値が求められる。そんなアニメなのは間違いない。

 

 第一話で真壁一騎(主人公)が人型機動兵器〈ファフナー〉に搭乗する場面から始まり、映像は子供時代に変わる。


 そこで少年少女は壊れたラジカセを修理して、そこから聞こえてきた

 

「あなたは、そこにいますか?」

 

という謎の問いかけに、

 

「「「「「せーの!」」」」」

 

 そして題名が映り、細波が聞こえ始める。

 

 「なにこれ?」と思う人も少なからずここでいるだろうし「いやいや、そんな序盤から突っ込まなくても」と言う人はいるだろう。後者の人は間違いなく、このアニメを見終え、傑作と信じている人だ。傑作なのには異論はない。間違いなく、傑作だと思う。

 

 ただ、これは段階的に完成されていく作品、と個人的に判断している。


 2004年のアニメ業界の忙しさに詳しいわけでもないのだが、今も尚アニメ業界は各段な効率化を迎えているとはいえ、多忙なのには変わりないだろうし、様々な監督やアニメーターがTwitterで悲痛な叫び声を上げている時には「頑張っているんだな……死なないでくれ」と祈っている。

 

 2004年のアニメ業界が忙しくないわけはない、と個人的に思っていて、そんな中で視聴者には早く作品を提供したい。そんな気持ちを持つのは当然だと思うし、そんな意思の中で放映されたのがこの作品だとは個人的には考えている。

 

 なので、メインヒロインの遠見真矢の口調が第一話から今に至っては全然違うなどの、一種の綻びが垣間見えるが、それもひとつの面白さかな、と思える。ただ、全員がこれを「面白い」と捉えることができるわけでもなく、だからこそ今となっては努力値が必要な作品になっているのは否めない。

 

 そして前述しているが、この作品は難解であり、設定集を片手に視聴を求められる形式の作品となっていると思われる。一話の時点で〈フェストゥム〉、〈ニーベルング・システム〉、〈ジークフリード・システム〉、「総士、俺たちはどこに行くんだ」からの「楽園だよ」で視聴者の脳内では解決することのない疑念が残ってしまう。


 これらの用語に解説があるわけではない。映像での視点を用いて、これがそうなんですよ、とは示してくれるが、果たしてこれが何のために用意されているのかという点を、第一話では示さない。そして、第一話では主人公の真壁一騎ファフナーに搭乗して、島の危機を救いに行きましょうか、という所で終わってしまう。

 

 現代において、物語が様々な角度で面白くなっていく中で、果たしてこの古臭さを見て欲しい、というのは過酷な物言いかもしれない。


 一話でわかるといったら、何やら厨二臭い主人公の相棒、皆城総士とよくわかんないけど校舎裏で喧嘩をする主人公。そして、何だかイケナイ大人の雰囲気を出す女狐。よくわからない怪物。ど田舎での閉鎖的な生活風景。突然の死。

 

 よくわからんアニメとしては完成されているように感じられ、続きを見るのに躊躇してしまうのではないか、と思う。

 

 けれど、自分としては第六話「翔空-ぎせい-」までは見て欲しい。ここからこの作品のドラマが動き出す。難解さは解決することはないと思うが、もうそれは調べて解決をしていくしかない。誰かが教えてくれるわけではない、自分が知るしかない。そういう事を教えてくれるのも、もしかしたらこの作品なのかもしれない。

 

 奇しくも、フェストゥムの脅威などを知ることもなかった真壁一騎たちと視聴者はそういう視点でクロッシングしており「不明な点は自分たちで知るしかなかった」という所もまた、エモーショナルな観点なのかもしれない。

 

 話は少しそれてしまうが、自分は一話で「面白くない」という理由だけで、もしくは誰かが発した意見に便乗してあらゆる作品を拒絶する行為はあまり好んでいない。これが仮に「肌に合っていない」とか「感性が違うんだろうな」というものでなら、自分としては無理してみる必要はないだろうな、と思っている。

 

 だが、今の時代ではあらゆる側面での接続を果たしてしまった人間にとって――日本人という枠組みしか知らないのだが――自分の意見を模索するよりも先に、他者の意見を見つける方が簡易的になった。

 

 その他者との接続が、自分の意見を尊重することはなく、物語の踏破をしないまま、登ったばかりの物語という山を下ってしまう。

 

 もちろん、これは善悪の話ではないし、どちらかが正解というものでもないだろう。だが、自分にとっては第一話で切ってしまうのは悲しいな、と思ってしまう。全部の物語に対し言っているものではなく、この場合では「難解だからといって/理解できないからといって」第一話で切るのは悲しい、ということだ。

 

 といっても、押し付けるべきものではない。見たい人が見ればいい、と思っている。

 


◇戦っているのは子供たちだけではない

 

 比較に上げてしまうのは、互いの作品に申し訳ないのだが『新世紀エヴァンゲリオン』という傑作がある。

 

 あれを個人的に「子供たちが全面的に戦っており、大人は基本的見守っている作品」だと思っている。勿論、これは新劇場版ではなく、テレビ版を指しているのだが、大人は見守り、世界を守るのは子供の役目という押しつけを魅せられているような気分にさせられる。

 

 これは、エヴァンゲリオンに搭乗できるのが碇シンジ含め彼らだけであり、大人は管制室で指示を飛ばすなどの助力はしているし、機械のメンテナンスは基本的に大人だろう。

 

 しかし、戦闘をしているのは、何か大きなものを失うのは子供たち、という観点を『新世紀エヴァンゲリオン』に見出してしまう。

 

 『蒼穹のファフナー』はそれの対極に位置しており、本作では大人もまた失う側に立っており、現在進行形で子供たちとともに前を進んでいく作品となっていく。一期だけではなく、二期である『蒼穹のファフナー EXODUS』も含めそうした大人も、子供も失いながら前を行く作品として出来上がっている。

 

 一期では日野洋治が『蒼穹のファフナー』の舞台と言ってもいい竜宮島を「あそこは我々が忘れかけていたものを必死に集めた巨大な記憶の保管庫だ」と言っていたのが、大人たちも前に進むという証であり守る側に立っている、と感じる。

 

 それは「守るべきものがない戦いは無意味だ」と言っていた真壁一騎の父親である真壁史彦の言葉にも頷ける。〈フェストゥム〉に脅かされ、愛すべきものたちを殺された末に憎しみを持って、怪物たちの殲滅を望むばかりではなく、竜宮島に住む大人たちは、世界を守る前に、島自体を、子供たちを支えている。

 

 この作品はそうした守るべきものが大人にも、子供にもあって、両者が失いながらも、前を行く作品なのだ。

 

 

◇存在するという意味

 

 この作品の難解さ――というよりも、哲学的な観点を感じさせるのは「存在への問い」だろう。
 
 前述している人類の敵として現れる〈フェストゥム〉は人類が外宇宙探査機に載せた、宇宙にいるかもしれない知的生命体に向けたメッセージを読み取り、「あなたはそこにいますか」という言葉を発言するようになった。ちなみにこの設定は作中では開示されない。

 

 本作ではこの「自分は本当に存在しているのか、今ここにいるのか」という問いかけを自分自身に強く、段階的にしていく作品だ。

 

 例えば真壁一騎は、親友の皆城総士との過去の出来事により、自己否定の強い人物となってしまい、自分がどこにもいなくなることへの恐怖を常に抱えて戦っている、と設定されている。そこから本作とのテーマと繋がっており、自分が存在している意味というものを確固たるものへ変質させていく。

 

 この感想を書いている自分も、今でも自分の存在意義というものを考えてしまうことはしばしばある。自分が何故ここに存在して、このように物語の感想を冗長的に書いているのか、面白いだけではいけないのか、様々な存在の所在を問うことをする。

 

 だが、こうした問いかけは第三者的に見れば――一般的な視点で、とも言い換えることもできるが「考えても仕方ない事」だとは思っている。大なり小なり、多くの人は多様的な苦悩を抱えて生きているし、悩みがない人間はいない。だが、この世界では――この国ではかもしれない――そういった真面目な問いかけ、真っすぐな問いかけは「意識が高い」と揶揄されてしまう場合が少なからずあるだろう。

 

 そういうした「意識の高さ」を感じてしまう人には、このアニメは向いていないだろう。肌に合ってはいないと思う。

 

 逆に、自分を否定された経験がある人には、何かしら響いてくる物語性でもあるし、失っていく中でも、失っていくものを見失わないこの作品に、心の片隅で涙を流してほしい。

 

 あなたは、本当にそこにいるのか。自分は本当にここにいるのだろうか。

 

 そんな事を、視聴しながら考えてしまう。

 

 

◇希望は、絶望の中にある。絶望は、希望の中にある

 

 本作では多くの人物が死んでいく。「鬱アニメ」と称されているこの作品だが、個人的にはそれは鬱ではない。厳密には、誰かにとっては鬱であるのだが、死が必ずしも鬱ではないし、絶望ではない、という事をこの作品は教えてくれる。

 

 その死がどこかで何かしらの形として成され、繋がっていく。というのを今も尚進み続ける作品だと思っている。その繋がっていくのは、死だけではない。

 

 〈フェストゥム〉が人類を惨殺するのも、惨殺しているという観点は人類が持つものであり、EXODUSで出てきたアザゼル型という存在は確かに憎しみという概念を持っての惨殺をしているかもしれないが、初期の〈フェストゥム〉は無に帰すことだけを望んでいた。なので、人類側からしたら、惨殺と侵略に違いないが、彼らにとっては「祝福」に過ぎない。

 

 人類軍が竜宮島を狙って、ノートゥング・モデルを奪取しようとしているのも、世界救済の為であり、〈フェストゥム〉滅亡への前進を目指してのことだろう。人類軍を指揮するへスター・ギャロップにも、人や敵を殺める動機は、それが悪逆的なものに視えてしまったとしても存在している。

 

 竜宮島は、一見すると自分たちの身だけを守ることに専念しているような島と判断してしまいそうだが、彼らにも守るべき者と守るべき場所が存在しているので、人類を救わないわけではない。EXODUSでは、対話という手段を選んだペルセウス中隊を設立した人類軍統括本部大将のナレイン・ワイズマン・ボースと共に竜宮島からは派遣部隊を構成し、平和の為の旅路を始めた。

 

 希望の中に絶望があるように、また絶望の中に希望があるように、この物語の中に存在している勢力は主観的に見れば、悪に見えるが、客観的に見れば自分たちの身を、世界を、人類を救いたいだけなのだ、というのがわかる。

 

 多角的なテーマ性を内包していながらも、第一期はきちんと一騎たちの物語として完結させているところも個人的には物語として見やすく、それでいてこれから広がっていく世界には胸を躍らせた。そして、まだ終わらず、映像に鮮麗さが生まれていき、戦闘シーンは格段に面白いものになっているEXODUSとBEYOND。

 

 まだ終わりがないこの物語を、ぜひこの機会に見られるのなら見て欲しい。

 

 

◇終わりに

 

 色々言っていますが、この作品は多くの事を教えてくれる素晴らしい作品であり、これからもその発展を期待している作品です。

 

 無印の登場人物たちに違和感を憶えたりするのも、作品の成長過程を見ることのできるいいものだと思っています。

 

 現代では、何もかもにクオリティを求めてしまいがちな傾向に少なからずある、と思っていますので、もしかしたらこの古臭く、アクション性の薄い無印には手を付けにくい人もいるのは何となくわかります。

 

 けれど、『蒼穹のファフナー』を視るには、一期を視るしかないのでそれなくして今はありません。なので、見ることのできる人はこの機会に12月15日まではYouTubeにて無料公開していますので、見ることをお薦めしておきます。公開している範囲は『蒼穹のファフナー EXODUS』までの全てです。

 

 また、見逃しても動画配信サービスサイトのHuluで配信されているので、契約しているのであれば、そちらの方がお薦めかもしれません。

 

 11月8日には『蒼穹のファフナー THE BEYOND』が第四、五、六話の先行上映をします。

 

 既に15周年を迎えたこの大きな物語に、これからの期待を込めて感想を述べさせていただきました。