主観器官

孤独に言葉を編んでいる。

【ネタバレあり】サムは荷物を運んだ。僕たちは何を運ぶ。『DEATH STRANDING』(前編)【感想】

 先に、感謝を述べさせていただきます。

 コジマプロダクション様、各関係者様、そして小島秀夫様。

 

 この作品が――ゲームが自分にとってかけがえのない物になりました。

 誰かにとって人生を大きく変えてしまったゲームがありますが、私にとって『DEATH STRANDING』はその一つになりました。

 

 もし、誰かにとって「そこまで良い物ではない作品」だったとしても、私にとってかけがえのない作品であることに価値があるのだ、と教えてくれた作品でもあります。

 

 また誰かにとって「そこまで良い作品ではない」という意見も、誰かにとっての正解なんだろうな、と思い、意見を断ち切るのではなく、見つめ直し繋ぎとめることも学びました。

 

 これは、私にとって人生の一部になりました。

 作ってくれたことに、何よりも感謝をしています。

 これからも応援しております。

 

 

――――――

 

 最高の瞬間というものがある。

 11月9日。予約していた『DEATH STRANDING』が自宅に届く。

 

 他に荷物が届く知らせはない。その日はそれだけが届くことを僕は知っていた。

 待ち望んでいたゲームがついに来た。妻の前ではしゃぐ僕はサンタクロースにプレゼントをもらった気分だった。まるで幼少期に戻った気持ちだ。

 

 僕にとって、最初に体感した最高の瞬間が「配達された荷物を確認した」時だった。

 本ブログでは前編、後編で語りたい部分を絞って記述していきたいと思う。

 まず初めに前編である「システム編」として語りたい事をピックアップする。

 

 

 大きく取り上げてこの4点に関して主観的だが、感想を述べていきたいと思う。

 

 

単純明快な「配達」という面白さ

 

 『DEATH STRANDING』は「荷物」を「どこかへ」運ぶゲームであり、その配達先で〈カイラル通信〉という次世代の通信インフラを繋げていくゲームだ。

 

 プレイヤーは映画の様な映像を魅せられ後、シームレスに主人公:サム・“ポーター”・ブリッジスを操作することになる。

 

 小島監督が発信していた情報を取得している人なら、感覚的に少量ながらでも理解できる部分があると思うのだが、初見の人は圧倒的映像と謎めいた世界に慣れていくのに頭を使うだろう。

 

 そして荷物を持って担ぎ、目的地まで行く。

 

 そうした中で感じるであろうことは「現代のスタイリッシュなゲーム性」を多く体感してきた現代人にとっては、大昔の社会に迷い込んだ様な地道なゲームであるということだ。

 

 前述しているが、このゲームは「配達」が主な目的だ。その上で舞台である北米大陸を次世代通信インフラである〈カイラル通信〉で繋げることが目的となっている。

 明確な目的の中で、主人公である「僕たち」は荷物を運ぶという単純な作業を強いられる。

 

 荷物を運ぶだけで何が面白いというのか? 現実で仕事をしてきたのに、返っても何故仕事をしないといけないのか?

 

 その言葉も分らなくはない。序盤は世界観に感嘆し、音楽に浸り、映像に魅入られる。そこにはゲーム性において「凄く面白いゲームだ!」と声を大にして言っていいのか悩ましいほどに、物語という媒体に浸ることのできるゲームであり、ゲームというよりは映画そのものだ、と思っていた。

 

 しかし、物語を進めていき、身の回りのインフラ技術も備わってくると「配達」というこれまで行ってきた労働が一変する。

 

 これまでは歩くだけだった。他には梯子やロープなどの道具を駆使して道を踏破していくだけだった。だが〈カイラル通信〉を繋いでいくことで、身の回りが整備される。

 

 歩くだけの運搬ではなく、大きな橋を渡るなど、車を使うなどの移動手段が増える。自身の選択肢が広がる。ただ依頼される荷物だけを運ぶのではなく、誰かが運べなかった荷物も運べる。

 

 この「どこかへ運ぶ」という単一な作業がとても面白い。何故なら単純だからだ。このシステムに複雑性が組み込まれていたのなら、ここまで荷物を運ぶ快感はなかっただろう。

 

 しかし、このゲームにはそうした労働が楽しくなる。誰もが楽しくなっている。荷物を運ぶという単純明快な仕事がこれほどまでに楽しい物なのか、と驚いた。

 何より、誰かが待ってくれている場所に荷物を届け、その誰かからの感謝が飛んでくる。そんな些細な事が自身にとっての喜びに繋がる。

 

 このゲームはどこまでもポジティブだ。それが良い。労働というものの単純さに加えられた感謝が。多くの配達人を喜ばせている。単純明快な面白さがこのゲームには存在している。

 

 単純明快な荷物の運搬に僕の心は次第に、最高の瞬間を積み重ねていた。

 

 

音楽に助けられるというこれまでにない接続性

 

 小島監督は多くの人もご存じのように音楽にも造詣が深い。

 本作にも「音楽」という存在は「僕たち」と共に、このゲームの中で生きている。

 

 ここで考えたのは『メタルギアソリッド ファントムペイン』をやっていた時に感じた「音楽」とは様相が異なっていた事だ。

 

 本作での「音楽」というのは、どこか特別な場所で聞けるものになっている。

 主人公であるサムが音楽プレーヤーを所持して、好き勝手に音楽に接続できるわけではない。

 

 本作での音楽の立ち位置は、特別なものになっている。特別な場所で、特別な時に聴くことができるのだ。

 

 現代では、多くの娯楽が携帯一つで楽しめるようになった。僕も20代前半なので、そういった環境の中、成長してきた。電子情報とともに、この身は時間を喰らっていた。

 

 音楽が今ではどこでも聞ける。電車の中、仕事場、レストラン、学校、本屋。

 どこでも接続ができる現代で、本作品はその接続性が維持されてはいない。

 

 個人的に好きなのがSILENT POETSの『Asylums For The Feeling』だ、

 

「death stranding ポートノットシティ」の画像検索結果

 

 これはとある依頼の到達点前で流れる曲。

 

 僕はここでも最高の瞬間というのを体感する。再び体感したこの感動は、これまでの音楽や現代で誰もが接続しているインターネットについて思い耽ってしまう事になる。

 

 まず、この曲が流れた構造の凄い所として、スキップができない下山中に流れ、それもある程度の距離を構築しているという点だった。これも計算されているのではないだろうか、と思っている。空いた距離が、僕と音楽の溝を埋めていく。

 

 今ではYouTubeや配信サイト等で何秒かのスキップ機能が常備されているのを知っている若者の方が多いのではないだろうか。

 

 この音楽システムはそうした現代と対極に位置している。物語は飛ばせない。流れる曲は音量を下げるか、目的地に一直線で高速で到達する以外にない。しかし、そういった行動に出た人が果たしてこのゲームを完結させられたのか、気になる所だ。

 

 そうしたシステムの中で、音楽に助けられる感覚を僕は知っていく。

 

 洋楽何て嗜む程度にしか聞かない僕が、知らなかった曲を聞いて、次第に助けられながら曲自体を好きになっていく。

 

 娯楽というのはこうだったんだろうな、と知らない昔を強く感じさせるこのシステムに僕は心を強く打たれた。誰もがネットに接続できる時代になった今では、音楽というものは、そして物語というものは楽しみ方が変わった。

 

 こんな物言いをしても僕は二十代前半だ。昔何てわからない。わかったつもりでいるんだ。昔の事は昔の人が良く知っている。

 

 けれど、今の時代を生きてきた。だから、今の時代はよく視える。

 

 楽しみ方が変わった娯楽はより接続性が増した一方、切断性も加速していく。それが悪いわけではない。楽しみ方というのは単一的ではなく、各々の楽しみ方があってこそだと僕も思う。それが娯楽というものではないのか、とすら思っている。だから、切断性が増してもそれはそれで時代なのだな、と噛みしめる。

 

 しかし、主観的な哀しさがそこにはあると思っている。

 

 蔓延する音楽はCDではなく、今ではダウンロードやYouTubeで聞くような時代になってきた。皆がそうではない。そちらのほうが接続しやすく、簡易的だ。『ドラえもん』に登場する〈どこでもドア〉が多くの自宅にあったら、誰しも使いたいだろう。そういうものだ。便利な物は、使いたい。

 

 だが、そこにあるのは新たな娯楽という形式の内部に潜む、より進化した切断性だ。効率化された娯楽には、自身の楽しみたいものを楽しみ、切り捨て、好きなもので固めるという性質が潜んでいる。

 

 そんな時代の中で、『DEATH STRANDING』という作品は稀有な接続性を見せてくれている。

 

 嫌いな音楽を一旦折り畳み、訪れることのない〈いつか〉という時間を迎えるときに聴こうとするのではなく、旅の中で無理やりという言い方はよくないが、そうした手法で届ける。

 

 じめじめとした地面を、時間を奪う雨が降る中――――音楽と共に目的地へ向かう。

 誰かに荷物を届ける傍らで、音楽に助けられ、音楽を知っていく。

 

 そんな中で気が付く。

 

 「この音楽、案外悪くないな」

 

 僕はそうして音楽に助けられ、好意を寄せているのに気が付いていた。

 

 音楽はこうして僕と接続し、身体を支えてくれていた。知らなかった曲を次第に好きになり、思い出の曲となる。これはこのゲームにしかない面白さであり、昔ながらの娯楽に対する視点ではないだろうか、と僕は思っている。

 

 前述しているが、プレイした全員がそう感じるわけではない。

 

 これは主観的な話だ。ここには主観しかない。僕の今の正解であり、誰かにとっての正解では決してない。そして正解だからと言って、全てにおいて正しいわけではない。一つの答えに過ぎない。

 

 だからこそ言えるのだが、僕にとってこのゲームは正解なのだ。素晴らしきものを、教えてくれたのだ。かけがえのないものになった。「最高の瞬間」を与えてくれた。

 

 

「いいね」だけで描かれる無償の愛

 

 小島監督はとあるインタビューでこう発言している。

 僭越ながら、こちらに引用をさせていただく。

 

 「いいね」があるじゃないですか。あれはポジティブなんですけど、ネガティブがないことに「何でですか? 」と。普通SNSではあるじゃないですか、それとお金にならないということになかなか同意してもらえなくて。ゲームってやっぱり自分の有利にならないと、そういう行動をしないんですよとスタッフが言うので、ここが難しかったです。「それをやってしまうと普通のゲームじゃないの? とりあえず“いいね”は無償の愛だ! これをまずやりましょう」と創り出したんですけど。(『「DEATH STRANDING」発売直後の小島秀夫監督インタビュー“いいねで繋がる無償の愛を届けたかった”』より)

 

 『DEATH STRANDING』は発売する以前からどういうゲームになるか不鮮明なものだった。世界観も謎めいており、ファンはわくわくするが、それ以上に「どういうゲームなのか」というのは一切見えてはこない。

 

 しかし、〈東京ゲームショウ2019〉にて公開されたプレイ映像にて、このゲームが他者とどう繋がっているのか等の説明が入ると同時にSNSと同様の「いいね」を送れるシステムであることも開示される。これまで不明だったゲームの内情が、少しずつ僕たちの元へ運搬された。

 

 その時は「いいね」を送れるなんていいね! ぐらいの駄洒落を言っていたが、実際にゲームに触れ、世界を旅する中でこれは本当に凄いシステムだなと思うことになる。

 

 まさにこれは小島監督が描き出す〈無償の愛〉そのものだった。

 

 『DEATH STRANDING』には建築要素がある。橋、雨避け、簡易ハウス、充電塔、ポスト、ジップラインなどなど。数多くの便利な道具が〈カイラルプリンター〉という高度な技術で現実に反映される。

 

 これは無限に建設できるわけではなく、とあるエネルギー的な立ち位置にあるものを費用として建設される。なので、どこでも無限に建設ができるわけではない。

 

 これらの要素は自分だけが利用するものではない。他者と共有し、その他者は自分でも建設することもできるが、欲しいと思っていたところに忽然と建っているそれらに感謝をし「いいね」という数値を残していく。

 

 この「いいね」というものは、ただ送るだけだ。そこにプレイヤーとしての見返りはない。

 

「いいね」が貰えて嬉しいと感じる人もいると思うし、「いいね」を送る事が凄く楽しい、と思う人もいるだろう。しかし、それに対しあまり意味を感じられずに黙々と孤独に進む配達人もいるはずだ。それはそれで各々の楽しみ方だ。良いと思う。

 

 しかし、そうした孤独な人たちすらもこの〈無償の愛〉は繋げてくれる。

 

 『DEATH STRANDING』に建設させられた物体は他者と共有される。オフライン状況であれば、共有はされないと思うが、そうした共有された建設物に贈られる「いいね」は積み重なって合計値が表示される。それとともに常時プレイ画面に誰が「いいね」を送ってきているのか、という繋がりを表示してくれるのだ。

 

 孤独であっても、孤独ではないというのはこのことなんだろうな、と強く感じる。「いいね」を貰うことを望んでいなくても、誰かにとっては適当に建設していたとしても「ありがとう」に変わる。一人で旅しているが、どこかにいる誰かに感謝をされる。感謝しかされない。

 

 これが〈無償の愛〉か、と感嘆すらした。

 

 これはTwitterで「いいね」欲しさに呟いた内容とは訳が違う。そういった繋がりではなく、純粋に建設し、自分でも便利であろうと考えた末に建設したものが、時間を置いて感謝される。人に存在する欲求から生まれる「いいね」ではなく、の形がこのゲームにはある。

 

 次第に運搬の為に建設していたものを、自分自身は「誰かの為に」建設し始めることだろう。僕もその一人だ。自分の為から、誰かの為に動き出す。そうした行動を促すゲームはきっと『DEATH STRANDING』だけではないのだろうか。

 

 僕は見た。〈無償の愛〉がどれだけ素晴らしくて、人を動かすのかを。

 

 誰かの為に、僕は荷物を運び、建設物を構築していた。誰かと繋がるために、動いていた自分が明確に存在していた。

 

 この世界を超えて誰かと“繋がった”のだ。確実に。愛と共に。

 

 「最高の瞬間」は“繋がった”先にあった。

 

 

これまでのゲームに存在した「アイテム」の根底を覆す世界観

 

 『DEATH STRANDING』には色々な「アイテム」が落ちている。それは誰かが運びきれなくて落としていった荷物であったり、プレイ中に使うどこかへ上る・渡る為の梯子だったり、主人公:サムが履く靴だったりと多岐に渡る。

 

 僕が感じたのはこれまでのゲームとは違った観点がこのゲームの中の「アイテム」には存在しているな、という事だった。

 

 これまでのゲームは(と言っても僕のやってきたゲームというのは数少ない)消費物だった。『マリオ』ではキノコで大きくなる。『ポケモン』ではモンスターボールはやはり個人的な消費物だ。

 

 『DEATH STRANDING』はそうではない。

 

 全体的な消費物であり、共有物なのだ。そこに気が付いたとき、僕はまるで劇場で感動した時にスタンディングオベーションをしてしまう感覚に身を包み込まれた。更に「小島監督!」と声を発した事だろう。思わず、隣にいた観客は驚いたことに違いない。

 

 これまでにない性質が多角的に組み込まれ、僕の身体は情報の海で洗われる。清められるわけでもなく、黒粘液体(タール)で覆われるわけでもない。魂が始まり(ゼロ)へと洗われるのだ。

 

 全体的消費物として出現するこの世界の「アイテム」は、使い捨てることもなければ、他者に何かしらの悪戯として使用できる事はない。拾うか拾わないかだけを純粋に問われている。

 

 例えば、誰かが運べなかった荷物。それを拾って代わりに運ぶ。その荷物は運ばれることが消費ではない。誰かが待ち望んでいた荷物だ。感謝をされ、その荷物はその誰かが使ってくれるのだろう。僕たちはその先を知らない。

 

 そして誰かの梯子だったりなども、ただの消費物ではない。梯子やロープなどの「アイテム」には、使用すると他者の世界に反映する。そこでまた誰かの為に使われる。感謝をされる。

 

 確かに消費されるだけの「アイテム」は存在する。ゲームだから当然そこは存在してしかるべきものだと思う。だが、それだけではない。

 

 このゲームにはゲームを超えて、誰かとの共有物が存在し、そこにも感謝が生まれる。そして誰かがこの世界に存在していることを感じる。荷物を運んでいるのは自分だけではないよな、という孤独さとは無縁になる。

 

 ゲームという枠を超えて、世界と繋がれる。個人的消費物だった「アイテム」が世界的共有物へと変わった。これは、小島監督がインターネットを見て、こうなるべきなんだよな、という思想を反映したものではないか、と推測に過ぎないが思えてくる。

 

 それを主観的に理解した時、「最高の瞬間」がまた僕を襲ったのだ。

 

終わりに

 

 前編である「システム編」はここまでです。後半には「ストーリー編」を用意しています。小説を読んだ上で書き終えたら投稿したいと思います。

 

 何度も感謝ばかりしているのですが、このゲームを体験できた事、クリアできた事に感謝しています。

 

 この記事は(他の記事も含めて)主観的な事しか述べていません。解釈ももしかしたら、誰かにとって違っているだろうし、そして制作者さんの方では「そうではない」と言われるかもしれません。

 

 けれど、僕にとっては正解なのです。誰かの意見を否定することもなく、私はこう感じたよ、というのを正直に発しています。いつも思っている事ですが「これは僕の正解であって、貴方の正解ではないですよ」という事をわかってくれたら幸いです。ただ、製作者さんの正解は順守したいな、と思います。

 

 僕たちが発しているのは教科書に載っている言葉ではなく、思考上で構築される自分の言葉です。なので、そこには貴方なりの正解があるわけで、他者が介入してもあまり意味をなさない事です。誰かがこのゲームを否定したところで、否定した人にもその人なりの正解があります。

 

 サムは荷物を運んでいたけれど、僕たちはこの時代で何を運んでいくのか。

 

 それは貴方の正解という概念の中に収まっているはずなんです。