【ネタバレあり】サムは荷物を運んだ。僕たちは何を運ぶ。『DEATH STRANDING』(後編)【感想】
12月5日にこの記事の前編を書いております。良ければ、読んでもらえると助かります。
前編では「システム編」として、ゲーム内におけるシステムについてを軸に書きましたが、この後編では「ストーリー編」として自分がストーリーを通して感じた事、登場人物に関してなどを書いていきたいと思います。
この後編に関しては各書店で販売中のノベライズ版『DEATH STRANDING』も通して語っていきたいと思います。
またタイトルにもある通り、盛大なネタバレが存在しています。プレイが途中の人、本を読み終わっていない人はこの記事を読むことはお薦めできません。
繋がっていること、繋がること、繋がらないこと
『DEATH STRANDING』という物語には頻繁に「繋がり」というものを強調する場面、台詞、道具が登場する。
それは最初に登場する手錠端末であったり、主人公:サムが所属するようになる〈ブリッジズ〉という組織であったり、色々なものが繋がりを象徴するものになっているのが『DEATH STRANDING』の特徴だ。
そんな『DEATH STRANDING』の面白いところは「繋がることが良い物であるのに対して、繋がることが絶対的なもの」としては伝えていない事だった。確かに、自ら孤独になろうとするな、という事柄をプレイヤーに読者に伝えてくるメッセージ性があるのに対して「でも、繋がったらダメなものもあるよね」とちゃんと教えてくれるのだ。
これが『DEATH STRANDING』の良い所だと僕は思っている。
それを感じ取ったのは、ゲーム中に登場する視えない敵である〈BT(Beached Thingの略称)〉と戦っている最中だった。
このゲームでは〈BT〉という敵や〈ミュール〉という妨害者もいるが、一概に「敵」としては視れないのもこのゲームの面白いところで、後に具体的に記述すると思うがこの作品には絶対的悪は基本的に存在しない。
話を戻し、僕は〈BT〉と対峙している最中に「繋がる」という事柄の意味を多角的に感じることができた。
「システム編」でも述べているのだが、〈BT〉を血液グレネードで倒した後などにこのゲームの最大のシステムである「いいね!」を貰う事がある。苦しみながらカイラル雲へと昇っていく座礁体。
なぜ、彼らは苦しみながらも「いいね!」を飛ばしてくるのだろうか? そもそも〈BT〉というのこの世界では敵対者ではないのだろか?
乱雑に思考が混じり、段々と整理されていく。
これまで〈カイラル通信〉という得体のしれないものを繋げる事への達成感を味わっていた自分が、この世界との繋がりを断ち切ってあげることで彼ら(BT)を救ってあげているのかもしれない。
そうした考えが脳裡を過った瞬間に、この作品では「繋がる事」を大事にしているのに対して、断ち切ること、繋がらないことも時には大事なんだよ、と取捨選択させてくれる、感じ取らせてくれる稀有な作品として自分の中では完成した。
僕と『DEATH STRANDING』は繋がっている。これは断ち切らず、次の世代まで語り継ぐほうがいい作品なのだろうな、と感じ取った。
自身と他者が〈爆弾〉である事の恐怖
作中では〈対消滅〉という粒子と反粒子が衝突し、エネルギーが他の粒子に変換される現象が死者である〈BT〉と生者である人間の間で起こる設定になっている。反物質に似た性質を持つ〈BT〉と人間が接触すれば周囲はクレーターになりかねない。
だからこそ、この世界では死んだ人間、もしくは生きている人間すべてが爆弾になる。爆発への燃料へと変換されている。
序章である今亡きイゴールが生きて足掻いている運転手を撃ち殺したのは、この〈対消滅〉を避けるためであり、イゴール自らも死を決断したのは同じくこのためだったことに後々気がつかされ、何度も面白さを味わえる。
この世界では〈時雨〉というあらゆる物の時間を奪う雨が降り続くせいで、人類はシェルターを創り、そこを住居として暮らしている。
狭窄した空間。隣り合わせの危険。収まることのできない不安。いつ来るかわからない荷物。
そんな中で、もし隣の人間が死んでしまったのなら〈BT〉と化して自分が喰われてしまうのではないか、という恐怖観念に襲われる毎日。
作中では荷物で精神安定剤を運ばされることがしばしばあったが、こんな世界では精神が安定していることの方が異常だという事にノベライズ版を読ませていただいて気がついた。ゲームでは気がつけなかった荷物を待つ人の感情をより深く描いているのがノベライズ版だ。なので、是非ゲームだけで終えてしまっている人は少しずつでも読んでみて欲しい。
自分が、他者が爆弾であることに恐怖する感覚がこの世界にはある。繋がることへの大事さを解くゲームであるはずなのに、この世界はどこまでも残酷なのだ。
無償の愛を送る大人:ハートマンという造形
この作品には多くの登場人物がいる。2019年の11月にはTwitter上で人気投票も行われ、序章で出番を終えたイゴールまでも含んでランクインしてくる愛情の溢れる人気投票だった。
僕が一番好きなのはBB(ブリッジベイビー)だ。共に旅をしていく中で、多くの時間繋がってきた。最初は自分もデッドマンのように装置としか、ゲーム内のオブジェクトの一つとしていたのに、段々とこの子がストレスを抱えないように、とBBを最優先にして荷物を運ぶことを考えていた。
普通のゲームでは考えられない。ストレスを与えないように行動しようなんてのは、ゲームをする側が考える事ではない。どの人物も要素も好きだが、一番好きなのはBBだ。
しかし、ここではそんなBBの話をするのではなく、作中でふと面白い事を感じさせてくれたハートマンという大人について話をする。
ハートマンという登場人物は、常にAEDを装着し、21分毎に心停止しては3分で蘇生する。1日に60回死に、60回生き返る男の21分という時間はビーチに行く待ち時間に過ぎない。そんな特異的で魅力に溢れた人物がハートマンだ。どうしてこうも魅力的な登場人物を作成できてしまうのか、小島監督の思考はどういう設計図があるのか、視てみたい。
作中での〈絶滅体〉などのヒントを提示してくれるなどのインテリ側面で活躍する彼の面白いところは唯一「いいね!」を数値化したものでくれる、という点だ。視える「いいね!」をくれる唯一の大人はハートマンだけだ。
どうしてこういう設計になっているのか、というのは推論にしかならないので、ここで感じ取ったことだけを記述する。主観に過ぎない。
「大人」の定義にもよるのだが、ハートマンが送ってきた「いいね!」に対して僕が感じたのは「こんな大人になりたい」という素朴なものだった。
当たり前だが「こんな大人」というのは一日に60回死に60回生き返る大人ではない。そんな特異的な大人にはなりたくない。
そしてこのハートマンという造形が凄いところは「いいね!」を送るだけではなく「よくないね!」も示してくれる。これも含めてこんな大人になりたい、と思わせてくれた。
いいね、という事だけではなく、駄目なことはダメだよ、というのを伝えてくれる。
そういった当たり前の背景がこの登場人物には詰め込まれている。
昨今では、誰かにとっての良い事が世間から乖離して絶対的な真実のようになっていることがSNS上で見かけられる。どう考えても悪いことであるのに対して、周囲が「いいね」という判断をすれば全てが正当化されるような空気間を僕はたまに味わうことがある。
だが、このハートマンは良い事は良いと示し、駄目な事はよくないねと示してくれる。どうしようもなく当たり前であるのに対して、今の時代ではとても難しい生き方なのかもしれない、と思えてしまう。
こんな当たり前のことが当たり前のようにできる大人になりたい、と魅せられたのかもしれない。
絶対的な悪が存在しない物語性
この物語に登場する悪とは何か?
そう考えたときに誰が、もしくは何が思い浮かぶだろうか。
アメリのために全てを消滅させようとしたヒッグスなのか。
死者であるのに、この世界に座礁している〈BT〉であるのか。
〈絶滅体〉であるアメリ自身なのか。
一体何が、悪なのか?
その答えを、小島監督は答えてくれている。
『DEATH STRANDING』スペシャル対談: Talk Stranding vol.3 “挑戦者と挑戦者” 山田孝之
小島監督と山田孝之さんの対談で小島監督は善悪についてこう語る。
「今回も悪役らしきものはいっぱい出てきますけど、その裏側を知ることもできるんですね。ゲームをプレイしていると。知らずに行く人もいるんでしょうけど。まあ悪でも善でもないわけでですよ。人は元を辿れば。人が原因じゃなくて社会とか世界が原因でそうなってしまう人もいるんで。」
なるほど、と僕はこの言葉を聞いた時にプレイ中や読書中に感じていた「敵対者は誰なのか」という事柄に納得した。
この物語には悪は存在しない。悪らしき者は何かしらの環境によって、仕組みによって、社会によって、世界によって変わっていく。
このゲームはどこまでも人生的なゲームなのだ。絶対的な悪は存在しない。誰しもが弱く、脆い。だからこそ悪に走らなければいけない時が訪れ、そうした役柄に落とされた存在がたくさんいる。
このゲームにはそうした「悪に堕ちてしまった者」たちのどうしようもない残酷な世界で希望をつかみ取る物語なのだ。
棒と縄
小島監督が発売前から「棒と縄」という言葉を呟いていたのを見ていた。僕は残念なことに安倍公房の本は三冊ほど持っているのだが『なわ』は所持しておらず、読んでいない。なので、ここで語られる文章はそうした書物を考慮した文章にあらず、主観に過ぎない。
『DEATH STRANDING』という作品には多くの「棒と縄」が出てくる。例えば、ゲーム序盤で勝手に身につけられている手錠型端末だ。
誰かを束縛してしまう手錠が、この世界では連絡手段のツールとして機能している。このビジュアルには圧倒的に驚かされた。拘束という「棒」の手段を誰かを繋ぎ止めるための「縄」として機能している。
そして終盤で主人公:サムがビーチから帰ってこなくなった時に、一丁の銃がサムを世界に繋ぎ止める「縄」の手段に切り替わる。
そしてノベライズ版を読みながら、ゲーム中には感じ取ることができなかったひとつの台詞に心を刺激される。
「絶滅を突き付けられたときのあがきこそが、生命の進化だったのだ。絶滅は消滅ではない。絶滅こそが希望だったの」(ノベライズ版『DEATH STRANDING(下巻)』308ページより引用)
この物語は人類の足掻きを泥臭く描いた作品だ。
その中で絶滅が迫っている世界で、アメリが作中で発したのは「絶滅こそが希望だった」という事だった。
絶滅という「棒」が人類にとって「縄」になりえる。
「銃なんて、ここでは必要ない。別の使い途があるから」
とサムに言うアメリ。
人に風穴を開けてきた銃という「棒」。多くの戦争で血で洗浄されたその兵器に、別の使い途を示す。
現実問題、アメリカでは銃の乱射事件が消えることは未だない。未だこの世界では「棒」が「棒」としてしか扱われていないのだ。
例えば今年2019年11月17日と18日に銃に関する事件がアメリカ・オクラホマ州ダンカンとカリフォルニア州で起こった。
17日の夜にカリフォルニア州では銃乱射事件が起こり、銃規制の声がさらに高まっていく。18日にはダンカンで銃発砲事件が起こり、三人死亡している。
こうした事件が未だに消えない。
『DEATH STRANDING』はそうした世界に対し、別の選択肢を提示している。とても力強い作品だ。
終わりに
書き終えるのが前編、後編合わせて遅くなりましたが、とても楽しいゲームであり、物語でした。
多角的に描かれていく物語は一度では絶対に満足できない。何度も味わうことで、より自分の中で厚みを増していく物語構造だと思います。
これを少数精鋭でそれも短期間で作り上げてきたスタッフの皆さん、小島監督。
お疲れ様でした。新たなゲームも楽しみにしています。