主観器官

孤独に言葉を編んでいる。

【ネタバレあり】生きることの難しさを、僕たちは知る『終末のフール』【感想】

 伊坂幸太郎さんの『終末のフール』を読み終えました。

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 この物語の構成は『死神の精度』に近いですが、あれよりも一連の物語の接続性は高いものになっているので、各章に登場するキャラクターには密接な関係性がなくても――『死神の精度』では、担当ごとに場所も移り行くわけでもなく――大きな建物を通して、関係を保っている。

 

 あらすじは、

 八年後に小惑星が衝突し、地球は滅亡する。そう予告されてから五年が過ぎた頃。当初は絶望からパニックに陥った世界も、いまや平穏な小康状態にある。仙台北部の団地「ヒルズタウン」の住民たちも同様だった。彼らは余命三年という時間の中で人生を見つめ直す。家族の再生、新しい生命への希望、過去の恩讐。はたして終末を前にした人間にとっての幸福とは? 今日を生きる事の意味を知る物語。

 

 醜い人間模様がありながらも、伊坂幸太郎さんらしさというのがやはりあって、自分が好きな章は『鋼鉄のウール』と『演劇のオール』。他の全ても好きですが、特に好きなのがその二つ。

 

 

◇終末の中で生きていく

 

 この物語の登場人物の殆どは、何かを失っている。これは言ってしまえば、全人類が「生きていくべき時間」というのを小惑星に奪われたと言えるが、そうではなく、軸となる登場人物たちは、何かしらを失い、自責の念のようなものを抱えている。その自責の念から生まれた、宛先のない謝罪を背負いながら、今から歩き出そうか、右脚からか、左脚から進むか、どうしようか、という所から始まる。

 

 伊坂幸太郎さんの暗澹とした物語は、粘り気がある。読んでいくうちに引きずり込まれて、泥だらけになっているような暗澹としたもの。本作にもそれはあるが『アヒルと鴨のコインロッカー』のようなどうしようもない嫌悪感から来るものではなく、人間の暗部を描きながらも、笑顔にさせてくれる点が散りばめられていて、読みやすい。そこがやはり、伊坂幸太郎さんだな、と感じてしまう。読者を幸福に包む、作家だな、と。


 この作品の良いところは、そうした自責の念や失った事柄にどうやって向き合っていくか、という点だ。多くの人々が終末の世界で略奪や殺害などを横行し、恨みや辛みを同じ人間にぶつけ、どうしようもないその感情を洗い流そうとする。

 

 この項目では『籠城のビール』を介して、その失った者を見ていきたいと思う。

 

 この章では、兄弟が復讐を果たそうとする物語が描かれる。これだけを聞いてしまうと『重力ピエロ』のようなものを想起させる。また『重力ピエロ』も読み直して、感想を記述したい。
 
 弟の「辰二」と兄の「虎一」は十年前に妹の「暁子」を殺されてしまう。十年前のある日に、「暁子」は籠城事件に巻き込まれてしまう。そこで三日間、犯人と隔離された状態になっていしまうのだが、終わりは直ぐに訪れた。

 

 三日目の朝に犯人が部屋から出てくると、警察が取り囲んでいる現場の中で、自分の頭部に向けて拳銃の引き金を引いた。取り残された「暁子」は「辰二」や「虎一」からしたら無事と言える。

 

 無事に無事に戻ってきた「暁子」に安心はなかった。身体的、精神的に衰弱した「暁子」を襲ったのは、マスコミだった。

 

 最近だと「京都アニメーション放火事件」があり、多くの人間に衝撃と悲しさを与えた残酷な事件として記憶に新しい。そうした事件の中で「京都アニメーション放火事件」に限らずだが、マスコミが取る行動は大きく取り上げられることがある。

 

 そうした背景はこの章でも描かれており、被害者である「暁子」にマスコミは集り、遠慮なく家の前で張り込みをし、扉が空けばフラッシュをたく。被害者家族を安心させよう、という気持ちは一切ない。

 

 そんな中で兄の「虎一」はマスコミの行動に我慢ができなくなり、テレビ局のリポーターに

 

「どうして、うちに構うんですか。どうせなら、犯人を調べてくださいよ。死んだとはいえ、原因はあちらなんですから。加害者ですよ。被害者のうちを、どうしてそう追い回すんですか」(本編101pより)

 

 と言った。

 

 この光景がテレビ番組に映し出される。たまたまそれを見た兄弟たちはスタジオの番組司会者が、

 

「そりゃ、面白いからに決まってますよね。死んだ犯人を追うより、この人の家を取材したほうが、面白いですから。被害者面している人間ほど、タフなんですよね」(本編101pより)

 

 と口にする。

 

 勿論この言葉に、被害者である彼らはどうしようもない怒りを覚える。妹を籠城した犯人のように、今度は彼ら兄弟がこの司会者を捕まえて、籠城してしまいそうなほどの憤慨を憶えている事だろう。

 

 そしてこの言葉から、この怒りから「辰二」の兄「虎一」は少しばかり変わってしまい、これまでは「虎一」と呼んでいたはずが、兄貴として、自分の兄という呼称でしか呼ぶことはなくなった。

 

 その後、「暁子」は自殺をしてしまう。「暁子」を殺したのは、他でもない。マスコミだ。

 

 それから母親も死んでしまった兄弟の中には――特に、兄貴である「虎一」の内には冷めない怒りが燃えている。「虎一」が見据えるのは、あの台詞を吐いた司会者。

 

 彼らは世界が終わる中、司会者を人質に籠城を始めた。

 

 この物語の良い所は、対象の司会者を悪で終わらせない、という所だった。普通、ここは司会者を殺して、何かしらの達成感やその後の展開を繋げがちだと個人的には思っているのだが、伊坂幸太郎さんの描き方はそうではなく、兄弟たちにとって悪だった存在を生かす。この終わっていく世界の中で、必死に生きろ、と言って見せる。そして、その生かすという手段も恰好良いのだ。

 

 なるほど。この物語は、どうしようもなく、生きていく物語なのだ。

 


◇明日死ぬとして

 

 これは終末世界の中で、どう生きていくか、生きていくとはどういうものなのかを物語る作品なんだな、というのがわかった。

 

 そしてそんな中、伊坂幸太郎さんならではの恰好良い男らしさのロマンを追求したような、他の伊坂作品でも書かれているような。格好良さが『鋼鉄のウール』には存在している。

 

 児島ジムというキックボクシングジムを運営している場所に、鋼鉄の「苗場」とジムの「会長」、そして、主人公である「ぼく」が終末の世界で、小さなジムの中、ミットやサンドバックに向かって衝撃を与えていく。終わる世界の中で、なぜ彼らは挑戦相手もいないはずのこの世界で鍛錬をしていくのか。

 

 「ぼく」は小学生四年の時にこの児島ジムに通おうとする。その動機が「負かしたい相手がいる」というものだった。その相手が威張っており、一つ上の学年なのだが、彼はその威張っている姿に不愉快な感情が溜っていき、どうにかしたい気持ちでジムに通うという選択肢を取る。


 しかし、何かを習うとしてなぜ児島ジムでキックボクシングなのかというのを「会長」に問われる。

 

 「ぼく」は「苗場さんみたいになりたいから」と一カ月前に見た、ある試合での「苗場」の勝利姿を思い浮かべていた。それから一年間通った「ぼく」は負かしたい相手という存在すら忘れて、「苗場」を見ていた。純粋な強さというものを求め出していた。しかし、小惑星によって世界の寿命が限りなく摩耗した瞬間に、ジムに通っている余裕などは勿論なくなってしまった。

 

 世界の終わりが告げられて五年後――世界が小康状態へと一旦落ち着いたある日の夕方に「ぼく」は街を歩き、ジムが残っているのを確認する。そこで練習をしている人がいることもいて、驚いた。

 

 あの頃と変わらずに、「苗場」と「会長」が練習をしていた。

 

 もうここだけでも格好いいな、と思ってしまう。こういう格好良さというのが、伊坂幸太郎さんの作品を読んでいて数々目にする。

 

 「苗場」には五年前、大事な試合を前にしていた。「富士岡」という男との戦いだ。結局、その試合は小惑星によって中止になってしまったのだが、「ぼく」やそのジムにいる主人公の先輩は「苗場」が勝つと確信する。

 

 その確信とともに、「ぼく」はある格闘技雑誌に載っていた「苗場」のインタビューを想いだしていた。

 

 反射的に、前に読んだ、格闘技雑誌のインタビューを思い出した。苗場山がこういっていたやつだ。「数字で表せることに興味がないんですよ。数学苦手だったし。だから、何戦何敗何勝とか、あんまり意味がないんです。だいたい、勝ち負けって、試合の結果だけじゃない。試合を観終わった観客の気持ちとか、俺自身の気持ちとか、そういうのも含めて、勝たないと」
 「なるほど」と相槌を打ったインタビュアーはきっと、苗場さんの言葉を理解できなかったに違いない。「練習は好き?」と次の質問に移っていた。
 「嫌で嫌で仕方ないですよ。あんな苦しいこと好きな奴、いないです」
 「でも、やっぱり負けたくないから、自分に鞭打つわけだ」
 「というよりも、あのオヤジが許してくれないですよ」と暗に会長のことを言う。それから、「でもとにかく俺は、いつも、自分に問いかけるんですよ」苗場さんの答えは、シンプルだけど、それを読んだぼくは、はっとさせられた。
 「問いかける?」
 「俺は、俺を許すのか? って練習の手を抜きたくなる時とか、試合で逃げたくなる時に、自分に訊くんです。『おい俺、俺は、こんな俺を許すのか?』って」(本編197pより)

 

 もう、無茶苦茶に恰好良い。この言葉って、今活躍しているあらゆる「プロ」の人が抱いていたりするものなんじゃないかな、と思うし、なによりこういう言葉や生き方というのは恰好良い。

 

 今の時代、スマートフォン一台あれば楽ができる。何かをしている最中に視聴したい動画があれば、ワンタッチでYouTubeに接続ができる。何か、不満があればTwitter等で呟ける。孤独を感じたら、誰かと接続できる。そういう時代の中で――勿論、この作品が発表されたのは2004年の『小説すばる』の雑誌からであるため、Twitterなどはまだ顔を出す前なのだが――こうした自分に問いかけるという行為は(少なくとも日本というミクロな観点で言えば)他者からすれば「何を言っているんだ、アイツは」となりがちだと私的には思っている。

 

 何せ、意識が高いなどの言葉を浴びせて、小馬鹿にする連中なんてのはわんさかいるわけだ。そういう奴らは消えることはない。むしろ伝染して、増えていくだろう。そうした中で、この「苗場」のように、問いかけるられるのか? いや、難しいのではないか。

 

 自分はこんな自分の意思さえも、抑えつけて生きていかないといけない現代社会を許せるのか? 許していいのか? 

 

 そう問いかけたい重い言葉だと思う。

 

 そして「苗場」が格好いいのは、これだけではない。

 

 俳優と、無口で愛想がない苗場さんとのやり取りはあまりに噛み合わず、気の利いた掛け合い喜劇のようで可笑しかった。しゃがんだ姿勢のまま、全部、読んだ。「苗場君ってさ、明日死ぬって言われたらどうする?」俳優は脈絡もなく、そんな質問をした。
 「変わりませんよ」苗場さんの答えはそっけなかった。
 「変わらないって、どうすんの?」
 「ぼくにできるのは、ローキックと左フックしかないですから」
 「それって練習の話でしょ? というかさ、明日死ぬのに、そんなことするわけ」可笑しなあ、と俳優は笑ったようだ。
 「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?」文字だから想像するほかないけれど、苗場さんの口調は丁寧だったに違いない。「あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」(本編220pより)

 

 最後の「苗場」の台詞が胸に小惑が落ちてきた気分になる。
 この言葉に感動を覚えた人は多いのではないか。こんな台詞が書けるのか、伊坂幸太郎さんはと感動をしてしまった。この「苗場」という人物にはモデルがいるのだが、それを含めたとしても凄い物語だな、と感動してしまう。

 

 そして小惑星によって、世界が終ろうとする中でも、「苗場」は文字通り練習を続けていた。彼の生き方が描かれる。

 

 「苗場」に焦点を当てすぎているが、「ぼく」にも物語がある。小惑星によって、人々が醜さを公にし出した時に、父親が引きこもったり、その父親が母親に暴力を振るったりする家庭に変貌してしまう中で彼はそれらが「許せなかった」。


 それらにどう向き合って、どうしていくのかもとても面白く、代えがたい強さなのだと思う。
 
 だが、この物語で大きく取り上げるとしたら、「苗場」のあの台詞だ。


 明日死ぬとして自分は何をするのか、と問いかけた時に何が思い浮かぶだろう。

 

 ある人は復讐かもしれない。そして、ある人は殺人という行為をしたいがために、歩いている人を襲うかもしれない。そしてある人は、耐えきれないという気持ちから自殺をするかもしれない。

 

 けれどある男は、ジムでいつもの練習メニューをこなす。理想的な生き方で、とても難しい生き方が描かれていた。

 

 

◇終わりに

 

 何を書こうとしていたのか、これを書き出して一週間後の夜。当然だが、忘れてしまっていた。なので、少し終わりを長めに書く。特段、意味はない。

 

 この作品は「世界の終わりで生きている意味はあるのだろうか」という人間の根底を描いている。そのテーマ性はとても暗いが、伊坂幸太郎さんはその暗さと同じくらい明るさも描く。その中に、僕は「人生」と名前を付けていいのか、月並みでどうしようもなくありふれたものを感じずにはいられない。

 

 自責に囚われ、復讐を切望し、後悔を胸に、延滞料金を徴収しに行く。

 

 根底を描きながら――伊坂さんがそう考えているのかは判然としない――笑顔にさせられ、考えさせられる。とても読んでいて充足感を得る読書体験をさせてくれる作家でもあるのだ。

 

 世界が終わるとして、貴方は何をしますか。

 

 僕なら多分、好きな小説を読みながら、自分が書いた下手くそな小説を眺めながら笑っていたい。そして机に向かいながら、書き上がっていない原稿を書く。

 

 そうだな、これは理想だ。とても難しい生き方なのだ。