【ネタバレあり】生まれ変わったその先に『アヒルと鴨のコインロッカー』【感想】
伊坂幸太郎さんの五作目である『アヒルと鴨のコインロッカー』を読みました。自分は『重力ピエロ』から手に取って、そこから伊坂さんの描き出す映画を観ているような雰囲気と独特の世界観へと溺れていきました。
『重力ピエロ』、『オーデュボンの祈り』、『ラッシュライフ』、『砂漠』、『アイネクライネナハトムジーク』。
それらを読んできて、読み終えた『アヒルと鴨のコインロッカー』。
伊坂幸太郎さんが島田荘司さんを神様だ、と思うように僕にとっての神様は伊坂幸太郎さんなんだ、と本作を読んで改めて思うのでした。
◇あらすじ
椎名という大学生の現在の物語と琴美という女性の2年前の物語が同時に描かれる、カットバック形式の小説。
椎名は引っ越し先のアパートの隣人・河崎に「本屋で広辞苑を盗まないか」と誘われる。断りきれなかった椎名は本屋から広辞苑を奪う手伝いをさせられてしまう。その計画の後、河崎やペットショップの店長をしている麗子から2年前の話を聞かされることになる。
2年前の物語は琴美、その恋人であるキンレィ・ドルジ(ブータン人)、河崎、麗子を中心に展開する。世間で多発しているペット惨殺事件の犯人たちに出会ったことにより、琴美が目を付けられてしまう。琴美は何度も襲われるが、ドルジや河崎に助けられ、逆に犯人たちを捕まえようとする。
2年前の事件と現在の本屋襲撃が次第につながっていく。(Wikipediaより)
◇心を幸せにしてくれる文章
本作も同様に、伊坂幸太郎さん独特の世界を堪能することができました。
個人的に伊坂幸太郎さんの醍醐味は会話と縫うように繋がる伏線、奇想天外な展開で斬新さを与えてくれる所でしょうか。
今の所、毎回伊坂さんには純粋に驚かされる物語を読ませていただいている気持ちです。
今作の『アヒルと鴨のコインロッカー』も序盤から楽しませてくれる文章で溢れています。特に自分が好きなのは、
鼻が高く、口がやや横広だった。眉は濃くて、笑うと口の端が吊り上がるようになった。整髪剤で立たせた短い髪は活動的にも見え、ますます悪魔の印象が強い。年齢は、僕よりも上だろう。
どう返事をしようかな、と段ボールを持つ手を入れ替えながら、迷っていた。
目の前の彼が、「あ、そうだ」と口を開いて、こう言った。
「シッポサキマルマリが来ただろう?」
あ、これは悪魔の言葉に違いないな、と思った。
(本編18pより)
こういった軽快で、僕の心を鷲掴みにして、幸せにしてくれる文章がいくつも配置されているのが伊坂幸太郎さんの素敵なところで、笑えるし、考えさせられて、感動すらさせられる。
でもそれが故意的には感じられず、才能なんだろうな、と思わせてくれるもの特徴的で読み続けてしまいます。
◇殺人よりも邪悪に描かれる屠殺
本作のテーマとも言える屠殺ですが、これがまた奇妙に、不気味に描かれます。背筋に寒気すら感じさせてくれるのがまた面白く、読み続けてしまいました。
伊坂幸太郎さんはあるインタビューの中でこう言っています。
これもエラソーというか決めつけることへの反発に繋がる感覚なのですが、僕は人殺しよりも強姦やいじめにずっと嫌悪感があるんです、それはリスクを負ってない暴力、最初から力関係で行われてしまうから。(e-hon「著者との60分」より)
この作品はそう言った伊坂さんの感情が明確に伝わってくるな、と感じます。
本作では猫や犬といった愛らしい動物たちを、自身たちの快楽の為に弄ぶように殺す三人組が現れます。
彼らは、テレビに自分たちの犯行が取り上げられても「有名人になった」という悦びしか感じず、危機を感じることはありません。
そんな彼らを不気味に描いているのが本作です。そこには殺人よりもどす黒く、歯止めの聞かない暴力があります。
◇過去と現在を編む
本作では現在の主人公である「椎名」と二年前の主人公である「琴美」が登場します。カットバック形式で進むこの小説は、とても巧妙に、そして楽しく展開していきます。
この過去と現在。関係なかった「椎名」と「琴美」。
二年前と今が繋がっていく。
特に読んでいて面白いのが、奇妙なミステリー感覚なんですね。
本作では前述しているように自分たちの快楽の為に動物を殺す人間が出てきます。
その動物殺しの犯人たちが現れたのは二年前。つまり、「琴美」が主人公の時に現れます。
二年前の物語は「琴美」が務めているペットショップにて商品から友人に格下げとなったクロシバという柴犬がいなくなり、「琴美」とその彼氏である「ドルジ」というブータン人が捜索をしているところから始まる。
クロシバを探している途中で犬ではなく、猫が車に轢かれてしまった瞬間を目の当たりにし、「琴美」は埋めてあげるために適した場所を探す。その為に訪れた立入禁止の児童公園。
そこで猫を埋葬した後に、彼ら二人は動物殺しの犯人と遭遇をしてしまい物語は発展していく――――。
この児童公園で「琴美」はこのような台詞を言っています。
「わたしはね、人間よりも犬や猫のほうが好きなの」(本編35pより)
こんな事を口にしてしまう人物が動物を殺す事で快感を得て、次は人間でやってみようと平然と狂気を口にしてしまう人間を目の当たりにしてしまうと胃の辺りがキリキリとしてしまう事でしょうし、まさに「琴美」がそうだったので、絶望的な出会いだったのは間違いないでしょうね。
そう。彼女は絶望的な出会いを果たしてしまうのです。
読者はこの出会いによって展開していく物語から「現在に琴美が現れない理由」を考えていくことになります。この物語の構造を十全に発揮した書き方をしているのも、この作品の醍醐味です。
現在で主に登場するのは主人公である「椎名」と広辞苑を盗まないかと提案してきた「河崎」。隣の隣に住んでいる日本人そっくりな外国人「ドルジ」。人形と勘違いをされたことのある美人のペットショップ店長「麗子」だけ。
二年前の登場人物は上述している登場人物の中から「椎名」の代わりに「琴美」が存在する形になっている。
なので、この物語を読んでいてまず初めに感じる違和感は「琴美が現在に現れない」という事。これによって、不安要素を匂わせて何が起こったのか、という答え知りたい読者は読み続けてしまう。
まだ何も事件は起こっていないはずなのに、悲壮感漂う会話や空気によってこの世界は一層ミステリアスなものに完成していました。読んでいて自然に「琴美に何があったのか」を模索するんです。とても上手な書き方で、綺麗に進みます。
◇叙述トリックの快感
中盤を過ぎると、この物語が大きく飛躍します。
ここで開示されるのは「椎名」に声を掛けた「河崎」という人物が実は「ドルジ」であったこと。
滔々と開示される答えが、驚きを与えてくれます。
ここで凄いのは、現在で「椎名」と広辞苑を盗むために計画を立てた「河崎」が「ドルジ」であるんじゃないか、とは誰も思えないんじゃないか、という点で、とても上手く書かれた物語だなと感嘆しました。
現在では上述している通り「琴美」は出てこないわけです。読者はここから何かしらの事件があったのだろうな、と連想してしまいます。なので、隣の隣に住んでいる外国人と紹介された「ドルジ」であろう人物の暗い雰囲気にも納得をしてしまうんですね。
その暗さからも何かしらあったのは間違いないな、と感じ取れるほどには良い書き方をされています。
そして伏線として自分が感嘆したのは、
「裏口から逃げられるのが、嫌なんだ」(本編139pより)
現在で「河崎(ドルジ)」が口にしたこの言葉です。
二年前の終盤で「琴美」と「ドルジ」は動物殺しの犯人たちを追い詰めるのですが、ある店の裏口から逃げられてしまい、不幸な事が起こります。
その出来事が起こったから「河崎(ドルジ)」は裏口から悲劇は起きるんだ、と「椎名」に言います。その悲劇と裏口は繋がるわけです。
この物語には過去からまだ引きずっている細い線がたくさんあります。
それを見つけて、彼がどう思っているのか、そう考えるのもとても面白かったです。
例えば、
「鳥葬だよ。ブーダンではね、人の死体を焼くんじゃなくて、鳥に食べさせるやり方があるんだ」
(中略)
「もしかして」麗子さんが声を発する。「あなたは、それがしたかったの? 鳥葬?」
河崎はゆっくりと、静かに瞼を閉じた。すぐに開く。「イエス」という返事にしか見えなかった。(本編336pより)
という会話は二年前の序盤で「琴美」が「ドルジ」に言った「悪い奴らとかさ、みんな鳥に食わせちゃえばいいんだよ」という言葉と繋がっています。
この物語は過去に亡くなってしまった「琴美」が現在において計画の一部として生きている物語でもあるのかもしれません。そういう意味での生まれ変わりなのかもしれませんね。
「ドルジ」が「河崎」として登場していたのも、そう言う意味合いからなのかもしれません。
本当に生まれ変わるんでしょうね、絶対でしょうね。
◇終わりに
本作でも幸福を与えてくれた伊坂幸太郎さん。
小説を読むときに――物語を読むときに――大抵は物語の面白さばかりに目線がいってしまうものですが、僕にとって伊坂幸太郎さんは「幸せをおすそ分けしてくれる作家」です。そういう物語構造をしていて、毎回楽しめています。
文章からは、小さな、それが積み重なって大きくなった幸せが明確に存在します。
――――
忘れていたことが一つある。
ボブ・ディランはまだ歌っているのだろうか?
どうやらここが坂の終わりみたいだ。
The answer, my friend, is blowing in the wind
【ネタバレあり】「あの頃」に見ていた景色を想い出す映画『天気の子』【感想】
平成17年4月17日からの約一年間。朝7時から放送していたテレビアニメをご存知でしょうか。
そう、『交響詩篇エウレカセブン』です。
僕は最初『天気の子』を見た時に『交響詩篇エウレカセブン』を思い出していました。終盤、森嶋帆高が鳥居に強く願いながら踏み込み、空へ潜ることができて、天野陽菜を救うシーンが『交響詩篇エウレカセブン』第26話「モーニング・グローリー」を彷彿とさせたんです。
そしてこの「モーニング・グローリー」というタイトルは気象現象を指し示していて、それも含めて運命的なものを感じすにはいられなかったんです(アニメでは曲の名前を使っているんですけど)。
TwitterではPS2版『天気の子』をやったことがあるなど原作があった、などといった供述がオカルト的速度で広まっていくお祭り状態を目撃しました。素敵だな、と思う一方でエロゲーをやったことのない僕は『交響詩篇エウレカセブン』を孤独に思い出していたんですよ。
須賀圭介にホランド・ノヴァクの面影を感じて、夏美にはタルホ・ユーキの一面が視えてしまったり。そう、帆高が家出をし、見つからない労働先の果てに潜り込んだ編集プロダクションは月光号の中だったんだなって。
『天気の子』は間違いなく世代を超えた各々の人生の転換点を見つめ直すことのできる映画とも感じます。あの頃の眩しかった憧憬や情景が、この映画にはありました。
それが僕にとっては『交響詩篇エウレカセブン』だったと思います。
◇帆高にとっての陽菜、子供であること、大人であること
ここからはだらだらとこの映画の良かった点を取り上げていきます。
帆高が陽菜に会い、彼女の家に訪れる場面があります。
「祈る」ことで雨の降り止まない街を晴れに変えてしまう能力を陽菜が持っている事を知った帆高はそれをビジネスにできないか考え、陽菜の家に行くことになります。
そこで陽菜が昼食を作りながら帆高にいくつか質問を投げるんですね。
「帆高は? どうして家出?」
「帰らなくて、いいの?」
などの質問を投げかけ、帆高が頑張って吐き出す。それに対して「そっか」とだけ相槌をする陽菜。ここが僕にとってはとても印象に残り、好きな場面の一つです。
陽菜は本来15歳なんですが、帆高と会った時に18歳と嘘をつきます。この年齢詐称が活きた会話だな、と感じました。これが自分より年下だと帆高が知っていれば、ここまで吐露できなかったんじゃないかな、とも思うんですよね。年齢が陽菜の方が上で、優しく問いかけてくれたからこそ、尚且つ近しい年齢関係だからこそ、不安だった言葉が自ずと出てくる。この場面は、そんな東京に出てきた帆高の不安を少しでも払拭できた場面なんじゃないかな、と思います。
この映画には、大人、子供、そういうしがらみの中で年齢もまたテーマ性の一つとして込められているんだな、と感じました。
帆高が家出や抱える悩みを吐き出せたのは、彼女の前だけだったんじゃないかなと思います。
◇「可哀想」と想う大人たち
須賀圭介が娘に会うために義母に会う序盤の場面。
あそこで、義母は「今の子供たちは可哀想」と雨が降る外を見ながら言うんです。
今の子供たちは豊かな季節の色彩さえも味わえないし、外でも遊べない。何て可哀想なんだ、と。
そして、その言葉と繋ぐように帆高が雨の中、空を見て笑う場面に移るんですね。分厚い雲の隙間から零れる光が、雨の中彼の瞳には映る。そんな中で帆高は晴れやかに笑顔を浮かべていた。雨が降り続く世界でも、笑顔を。
可哀想だ、と感じるのは結局のところ主観的なんですよね。
大人がそう感じているだけで、彼らにはそうではなく、元からそうであったものを悲しめるわけもない。だからこそ、今あるもので輝きを探し出すんですよね。
一貫としてこの概念はこの映画に存在していて、それが強く感じたのは、帆高が陽菜を迎えに行く時に線路を走っている場面でのことなんです。
周囲は走っている帆高を「何だアイツ」とか「止まりなさい」とかスマホを片手に笑っていたり、「ありゃ捕まるな」と言う人もいる。まあ、捕まるんですけど。
でもそれって、「彼らが感じている考え」でしかないんですよね。たまに僕も報道とか誰かの話を見たり聞いたりしている時に「いや、でも本人はそう思ってないんじゃないかな」とか思う時があります。帆高はそんなの関係なく、走り続けていたんですよね。
◇自分自身を止めようとした須賀圭介
須賀さんは好きな登場人物なんですが、彼はどっちつかずな存在で。
大人であったり、もしくは大人であることを務めようとする子供であったり。
不安定な存在なんですよね。自分の生き方というか、歩く道とかを今なお探し続けている少年のような存在でもあるのかな、と映画を観ながら思うところがありました。そこが自分は「あー、ホランドだ」と感じてしまいましたね。最高なんですよ。
そんな須賀ですが、終盤で帆高と自分を重ねて涙を流したり、帆高を警察へ連れて行こうとしたり、でも帆高に加担したり、と客観的に見たら不安定な行動や言動を取るんですよ。
彼が帆高を止めたかったのは、過去の自分自身を止める行為でもあるのかな、と思いました。彼を止めることで、今の永遠に続く安寧で過ごそう、と思っていたんじゃないかな、と思っています。
須賀が窓を開けて、水を部屋に流し込む場面での解釈は映画ライターのヒナタカさんのものに感動しましたので僭越ながら記事の最後にでも載せておきます。
◇陽菜が最後に祈り続けていたこと
陽菜を救ったことで、東京は水の都になってしまう。
止むはずだった雨は止むことを知らない。
こうなってしまったのは、僕たちのせいなんだ、と帆高は罪悪感を抱えながら数年ぶりに東京へ戻ってきた。
そこで大人たちは「東京は元に戻っただけさ」、「自分たちが世界を変えてしまった? そんなわけあるか。自惚れるな」と帆高に言うんです。落ち込んでいる帆高を慰めている風にも聞こえますが、ここで帆高が考えているのは「陽菜さんに何て伝えよう」なんですよね。
世界を変革させてしまった自覚が彼らに――彼らだけにあるのは間違いなくて、だからこそ彼女も落ち込んでいるんじゃないかな、と想いどう励まそうかな、とここで帆高は思っているんじゃないかな、と思いました。
悩みながら、いつも歩いていた道を行く帆高。
そこで「世界は最初から狂っていた。元に戻っただけ……そう伝えたらいいのかな」と独り言を言うんですね。
そして顔を上げると陽菜がいて、彼女は晴れ女で会った時のように、祈りをしている。
ここで彼女は何を祈っていたのだろうか。そもそも、これは祈りなのか? と考えていました。もう晴れ女ではない彼女が何を祈るんだろう、と。
そこで着地した答えは「謝罪」なんじゃないかな、と思うんですよね。
彼女は帆高と同じで世界そのものを変えてしまった自覚を持っていて、その根本的な原因が自分にあることを知っている。大人は何も知らない。でも彼らは知っているし、自覚している。
だから、陽菜はこうして謝り続けている。一人の人として、祈ることはできないけど、謝る事ならできるから、と。行ってきたことを、無責任に放り出したくはない。
帆高はそうした光景を見て、彼女の姿勢を見て「違う。元に戻ったとかそういうんじゃないんだ」と確信するんですね。
それでも、前に進むしかないよね。進もう、という意味合いでの「大丈夫」だったんじゃないかな、と思います。
謝罪と言っても、重大な過ちを犯してしまったから謝ろう、といった気分ではなくて、自分たちが悪いことをしてきたのは間違いないから謝る、といったニュアンスで緊急記者会見の中で謝罪をすると言った空気感ではないんですよね。
この映画では無責任な大人たちを多く描いています。ここで指し示す大人というのも、年齢というものだけでは語れないでしょうし、大人全てが無責任なわけでもない。
ただ、帆高と陽菜は登場してきた無責任な大人たちとは違って、自分たちのやってきたことを自覚して、世界に向かって謝り続ける。でも謝って済む話しでもないのもわかっている。だからこそ、前に進むしかない。
そうした謝ることで立ち止まるんじゃなくて、それでも許し合う事のできる部分を互いで支え合って、そうして生きていく背景をこの映画では語っていたのかもしれない、と自分は思っています。
終わりに
前述している通り、読んでいて素晴らしい解釈をしてるな、という記事を張りたいと思います。二つありますが、どちらも素晴らしく文学的観点、多角的な解釈をしていて、読み応えもあります。僕にはできない解釈の仕方や知識の広げ方は感動しました。
ヒナタカさんは過去に映画『チャッピー』の感想で初めて拝見したんですが、とても解釈の広げ方が面白く、学びもありました。面白いです。
そして、あの頃、人生のひと時の幸福を感じていた日々を思い出させてくれた『天気の子』に感謝します。