【ネタバレあり】「あの頃」に見ていた景色を想い出す映画『天気の子』【感想】
平成17年4月17日からの約一年間。朝7時から放送していたテレビアニメをご存知でしょうか。
そう、『交響詩篇エウレカセブン』です。
僕は最初『天気の子』を見た時に『交響詩篇エウレカセブン』を思い出していました。終盤、森嶋帆高が鳥居に強く願いながら踏み込み、空へ潜ることができて、天野陽菜を救うシーンが『交響詩篇エウレカセブン』第26話「モーニング・グローリー」を彷彿とさせたんです。
そしてこの「モーニング・グローリー」というタイトルは気象現象を指し示していて、それも含めて運命的なものを感じすにはいられなかったんです(アニメでは曲の名前を使っているんですけど)。
TwitterではPS2版『天気の子』をやったことがあるなど原作があった、などといった供述がオカルト的速度で広まっていくお祭り状態を目撃しました。素敵だな、と思う一方でエロゲーをやったことのない僕は『交響詩篇エウレカセブン』を孤独に思い出していたんですよ。
須賀圭介にホランド・ノヴァクの面影を感じて、夏美にはタルホ・ユーキの一面が視えてしまったり。そう、帆高が家出をし、見つからない労働先の果てに潜り込んだ編集プロダクションは月光号の中だったんだなって。
『天気の子』は間違いなく世代を超えた各々の人生の転換点を見つめ直すことのできる映画とも感じます。あの頃の眩しかった憧憬や情景が、この映画にはありました。
それが僕にとっては『交響詩篇エウレカセブン』だったと思います。
◇帆高にとっての陽菜、子供であること、大人であること
ここからはだらだらとこの映画の良かった点を取り上げていきます。
帆高が陽菜に会い、彼女の家に訪れる場面があります。
「祈る」ことで雨の降り止まない街を晴れに変えてしまう能力を陽菜が持っている事を知った帆高はそれをビジネスにできないか考え、陽菜の家に行くことになります。
そこで陽菜が昼食を作りながら帆高にいくつか質問を投げるんですね。
「帆高は? どうして家出?」
「帰らなくて、いいの?」
などの質問を投げかけ、帆高が頑張って吐き出す。それに対して「そっか」とだけ相槌をする陽菜。ここが僕にとってはとても印象に残り、好きな場面の一つです。
陽菜は本来15歳なんですが、帆高と会った時に18歳と嘘をつきます。この年齢詐称が活きた会話だな、と感じました。これが自分より年下だと帆高が知っていれば、ここまで吐露できなかったんじゃないかな、とも思うんですよね。年齢が陽菜の方が上で、優しく問いかけてくれたからこそ、尚且つ近しい年齢関係だからこそ、不安だった言葉が自ずと出てくる。この場面は、そんな東京に出てきた帆高の不安を少しでも払拭できた場面なんじゃないかな、と思います。
この映画には、大人、子供、そういうしがらみの中で年齢もまたテーマ性の一つとして込められているんだな、と感じました。
帆高が家出や抱える悩みを吐き出せたのは、彼女の前だけだったんじゃないかなと思います。
◇「可哀想」と想う大人たち
須賀圭介が娘に会うために義母に会う序盤の場面。
あそこで、義母は「今の子供たちは可哀想」と雨が降る外を見ながら言うんです。
今の子供たちは豊かな季節の色彩さえも味わえないし、外でも遊べない。何て可哀想なんだ、と。
そして、その言葉と繋ぐように帆高が雨の中、空を見て笑う場面に移るんですね。分厚い雲の隙間から零れる光が、雨の中彼の瞳には映る。そんな中で帆高は晴れやかに笑顔を浮かべていた。雨が降り続く世界でも、笑顔を。
可哀想だ、と感じるのは結局のところ主観的なんですよね。
大人がそう感じているだけで、彼らにはそうではなく、元からそうであったものを悲しめるわけもない。だからこそ、今あるもので輝きを探し出すんですよね。
一貫としてこの概念はこの映画に存在していて、それが強く感じたのは、帆高が陽菜を迎えに行く時に線路を走っている場面でのことなんです。
周囲は走っている帆高を「何だアイツ」とか「止まりなさい」とかスマホを片手に笑っていたり、「ありゃ捕まるな」と言う人もいる。まあ、捕まるんですけど。
でもそれって、「彼らが感じている考え」でしかないんですよね。たまに僕も報道とか誰かの話を見たり聞いたりしている時に「いや、でも本人はそう思ってないんじゃないかな」とか思う時があります。帆高はそんなの関係なく、走り続けていたんですよね。
◇自分自身を止めようとした須賀圭介
須賀さんは好きな登場人物なんですが、彼はどっちつかずな存在で。
大人であったり、もしくは大人であることを務めようとする子供であったり。
不安定な存在なんですよね。自分の生き方というか、歩く道とかを今なお探し続けている少年のような存在でもあるのかな、と映画を観ながら思うところがありました。そこが自分は「あー、ホランドだ」と感じてしまいましたね。最高なんですよ。
そんな須賀ですが、終盤で帆高と自分を重ねて涙を流したり、帆高を警察へ連れて行こうとしたり、でも帆高に加担したり、と客観的に見たら不安定な行動や言動を取るんですよ。
彼が帆高を止めたかったのは、過去の自分自身を止める行為でもあるのかな、と思いました。彼を止めることで、今の永遠に続く安寧で過ごそう、と思っていたんじゃないかな、と思っています。
須賀が窓を開けて、水を部屋に流し込む場面での解釈は映画ライターのヒナタカさんのものに感動しましたので僭越ながら記事の最後にでも載せておきます。
◇陽菜が最後に祈り続けていたこと
陽菜を救ったことで、東京は水の都になってしまう。
止むはずだった雨は止むことを知らない。
こうなってしまったのは、僕たちのせいなんだ、と帆高は罪悪感を抱えながら数年ぶりに東京へ戻ってきた。
そこで大人たちは「東京は元に戻っただけさ」、「自分たちが世界を変えてしまった? そんなわけあるか。自惚れるな」と帆高に言うんです。落ち込んでいる帆高を慰めている風にも聞こえますが、ここで帆高が考えているのは「陽菜さんに何て伝えよう」なんですよね。
世界を変革させてしまった自覚が彼らに――彼らだけにあるのは間違いなくて、だからこそ彼女も落ち込んでいるんじゃないかな、と想いどう励まそうかな、とここで帆高は思っているんじゃないかな、と思いました。
悩みながら、いつも歩いていた道を行く帆高。
そこで「世界は最初から狂っていた。元に戻っただけ……そう伝えたらいいのかな」と独り言を言うんですね。
そして顔を上げると陽菜がいて、彼女は晴れ女で会った時のように、祈りをしている。
ここで彼女は何を祈っていたのだろうか。そもそも、これは祈りなのか? と考えていました。もう晴れ女ではない彼女が何を祈るんだろう、と。
そこで着地した答えは「謝罪」なんじゃないかな、と思うんですよね。
彼女は帆高と同じで世界そのものを変えてしまった自覚を持っていて、その根本的な原因が自分にあることを知っている。大人は何も知らない。でも彼らは知っているし、自覚している。
だから、陽菜はこうして謝り続けている。一人の人として、祈ることはできないけど、謝る事ならできるから、と。行ってきたことを、無責任に放り出したくはない。
帆高はそうした光景を見て、彼女の姿勢を見て「違う。元に戻ったとかそういうんじゃないんだ」と確信するんですね。
それでも、前に進むしかないよね。進もう、という意味合いでの「大丈夫」だったんじゃないかな、と思います。
謝罪と言っても、重大な過ちを犯してしまったから謝ろう、といった気分ではなくて、自分たちが悪いことをしてきたのは間違いないから謝る、といったニュアンスで緊急記者会見の中で謝罪をすると言った空気感ではないんですよね。
この映画では無責任な大人たちを多く描いています。ここで指し示す大人というのも、年齢というものだけでは語れないでしょうし、大人全てが無責任なわけでもない。
ただ、帆高と陽菜は登場してきた無責任な大人たちとは違って、自分たちのやってきたことを自覚して、世界に向かって謝り続ける。でも謝って済む話しでもないのもわかっている。だからこそ、前に進むしかない。
そうした謝ることで立ち止まるんじゃなくて、それでも許し合う事のできる部分を互いで支え合って、そうして生きていく背景をこの映画では語っていたのかもしれない、と自分は思っています。
終わりに
前述している通り、読んでいて素晴らしい解釈をしてるな、という記事を張りたいと思います。二つありますが、どちらも素晴らしく文学的観点、多角的な解釈をしていて、読み応えもあります。僕にはできない解釈の仕方や知識の広げ方は感動しました。
ヒナタカさんは過去に映画『チャッピー』の感想で初めて拝見したんですが、とても解釈の広げ方が面白く、学びもありました。面白いです。
そして、あの頃、人生のひと時の幸福を感じていた日々を思い出させてくれた『天気の子』に感謝します。