主観器官

孤独に言葉を編んでいる。

【ネタバレあり】サムは荷物を運んだ。僕たちは何を運ぶ。『DEATH STRANDING』(後編)【感想】

 ç»å  12月5日にこの記事の前編を書いております。良ければ、読んでもらえると助かります。

  

hashigo.hatenablog.com

 

 前編では「システム編」として、ゲーム内におけるシステムについてを軸に書きましたが、この後編では「ストーリー編」として自分がストーリーを通して感じた事、登場人物に関してなどを書いていきたいと思います。

 

 この後編に関しては各書店で販売中のノベライズ版『DEATH STRANDING』も通して語っていきたいと思います。

 

 またタイトルにもある通り、盛大なネタバレが存在しています。プレイが途中の人、本を読み終わっていない人はこの記事を読むことはお薦めできません。

 

 

 繋がっていること、繋がること、繋がらないこと

  『DEATH STRANDING』という物語には頻繁に「繋がり」というものを強調する場面、台詞、道具が登場する。

 それは最初に登場する手錠端末であったり、主人公:サムが所属するようになる〈ブリッジズ〉という組織であったり、色々なものが繋がりを象徴するものになっているのが『DEATH STRANDING』の特徴だ。

 

 そんな『DEATH STRANDING』の面白いところは「繋がることが良い物であるのに対して、繋がることが絶対的なもの」としては伝えていない事だった。確かに、自ら孤独になろうとするな、という事柄をプレイヤーに読者に伝えてくるメッセージ性があるのに対して「でも、繋がったらダメなものもあるよね」とちゃんと教えてくれるのだ。

 

 これが『DEATH STRANDING』の良い所だと僕は思っている。

 

 それを感じ取ったのは、ゲーム中に登場する視えない敵である〈BT(Beached Thingの略称)〉と戦っている最中だった。

 

 このゲームでは〈BT〉という敵や〈ミュール〉という妨害者もいるが、一概に「敵」としては視れないのもこのゲームの面白いところで、後に具体的に記述すると思うがこの作品には絶対的悪は基本的に存在しない。

 

 話を戻し、僕は〈BT〉と対峙している最中に「繋がる」という事柄の意味を多角的に感じることができた。

 「システム編」でも述べているのだが、〈BT〉を血液グレネードで倒した後などにこのゲームの最大のシステムである「いいね!」を貰う事がある。苦しみながらカイラル雲へと昇っていく座礁体。

 

 なぜ、彼らは苦しみながらも「いいね!」を飛ばしてくるのだろうか? そもそも〈BT〉というのこの世界では敵対者ではないのだろか?

 

 乱雑に思考が混じり、段々と整理されていく。

 

 これまで〈カイラル通信〉という得体のしれないものを繋げる事への達成感を味わっていた自分が、この世界との繋がりを断ち切ってあげることで彼ら(BT)を救ってあげているのかもしれない。

 

 そうした考えが脳裡を過った瞬間に、この作品では「繋がる事」を大事にしているのに対して、断ち切ること、繋がらないことも時には大事なんだよ、と取捨選択させてくれる、感じ取らせてくれる稀有な作品として自分の中では完成した。

 

 僕と『DEATH STRANDING』は繋がっている。これは断ち切らず、次の世代まで語り継ぐほうがいい作品なのだろうな、と感じ取った。

 

自身と他者が〈爆弾〉である事の恐怖

 作中では〈対消滅〉という粒子と反粒子が衝突し、エネルギーが他の粒子に変換される現象が死者である〈BT〉と生者である人間の間で起こる設定になっている。反物質に似た性質を持つ〈BT〉と人間が接触すれば周囲はクレーターになりかねない。

 

 だからこそ、この世界では死んだ人間、もしくは生きている人間すべてが爆弾になる。爆発への燃料へと変換されている。

 

 序章である今亡きイゴールが生きて足掻いている運転手を撃ち殺したのは、この〈対消滅〉を避けるためであり、イゴール自らも死を決断したのは同じくこのためだったことに後々気がつかされ、何度も面白さを味わえる。

 

 この世界では〈時雨〉というあらゆる物の時間を奪う雨が降り続くせいで、人類はシェルターを創り、そこを住居として暮らしている。

 

 狭窄した空間。隣り合わせの危険。収まることのできない不安。いつ来るかわからない荷物。 

 

 そんな中で、もし隣の人間が死んでしまったのなら〈BT〉と化して自分が喰われてしまうのではないか、という恐怖観念に襲われる毎日。

 

 作中では荷物で精神安定剤を運ばされることがしばしばあったが、こんな世界では精神が安定していることの方が異常だという事にノベライズ版を読ませていただいて気がついた。ゲームでは気がつけなかった荷物を待つ人の感情をより深く描いているのがノベライズ版だ。なので、是非ゲームだけで終えてしまっている人は少しずつでも読んでみて欲しい。

 

 自分が、他者が爆弾であることに恐怖する感覚がこの世界にはある。繋がることへの大事さを解くゲームであるはずなのに、この世界はどこまでも残酷なのだ。

 

無償の愛を送る大人:ハートマンという造形

 この作品には多くの登場人物がいる。2019年の11月にはTwitter上で人気投票も行われ、序章で出番を終えたイゴールまでも含んでランクインしてくる愛情の溢れる人気投票だった。

 

 僕が一番好きなのはBB(ブリッジベイビー)だ。共に旅をしていく中で、多くの時間繋がってきた。最初は自分もデッドマンのように装置としか、ゲーム内のオブジェクトの一つとしていたのに、段々とこの子がストレスを抱えないように、とBBを最優先にして荷物を運ぶことを考えていた。

 

 普通のゲームでは考えられない。ストレスを与えないように行動しようなんてのは、ゲームをする側が考える事ではない。どの人物も要素も好きだが、一番好きなのはBBだ。

 

 しかし、ここではそんなBBの話をするのではなく、作中でふと面白い事を感じさせてくれたハートマンという大人について話をする。

 

 ハートマンという登場人物は、常にAEDを装着し、21分毎に心停止しては3分で蘇生する。1日に60回死に、60回生き返る男の21分という時間はビーチに行く待ち時間に過ぎない。そんな特異的で魅力に溢れた人物がハートマンだ。どうしてこうも魅力的な登場人物を作成できてしまうのか、小島監督の思考はどういう設計図があるのか、視てみたい。

 

 作中での〈絶滅体〉などのヒントを提示してくれるなどのインテリ側面で活躍する彼の面白いところは唯一「いいね!」を数値化したものでくれる、という点だ。視える「いいね!」をくれる唯一の大人はハートマンだけだ。

 

 どうしてこういう設計になっているのか、というのは推論にしかならないので、ここで感じ取ったことだけを記述する。主観に過ぎない。

 

 「大人」の定義にもよるのだが、ハートマンが送ってきた「いいね!」に対して僕が感じたのは「こんな大人になりたい」という素朴なものだった。

 

 当たり前だが「こんな大人」というのは一日に60回死に60回生き返る大人ではない。そんな特異的な大人にはなりたくない。

 

 そしてこのハートマンという造形が凄いところは「いいね!」を送るだけではなく「よくないね!」も示してくれる。これも含めてこんな大人になりたい、と思わせてくれた。

 

 いいね、という事だけではなく、駄目なことはダメだよ、というのを伝えてくれる。

 そういった当たり前の背景がこの登場人物には詰め込まれている。

 

 昨今では、誰かにとっての良い事が世間から乖離して絶対的な真実のようになっていることがSNS上で見かけられる。どう考えても悪いことであるのに対して、周囲が「いいね」という判断をすれば全てが正当化されるような空気間を僕はたまに味わうことがある。

 

 だが、このハートマンは良い事は良いと示し、駄目な事はよくないねと示してくれる。どうしようもなく当たり前であるのに対して、今の時代ではとても難しい生き方なのかもしれない、と思えてしまう。

 

 こんな当たり前のことが当たり前のようにできる大人になりたい、と魅せられたのかもしれない。

 

絶対的な悪が存在しない物語性

 この物語に登場する悪とは何か?

 

 そう考えたときに誰が、もしくは何が思い浮かぶだろうか。

 

 アメリのために全てを消滅させようとしたヒッグスなのか。

 

 死者であるのに、この世界に座礁している〈BT〉であるのか。

 

 〈絶滅体〉であるアメリ自身なのか。

 

 一体何が、悪なのか?

 

 その答えを、小島監督は答えてくれている。

 


『DEATH STRANDING』スペシャル対談: Talk Stranding vol.3 “挑戦者と挑戦者” 山田孝之

 

 小島監督山田孝之さんの対談で小島監督は善悪についてこう語る。

 

 「今回も悪役らしきものはいっぱい出てきますけど、その裏側を知ることもできるんですね。ゲームをプレイしていると。知らずに行く人もいるんでしょうけど。まあ悪でも善でもないわけでですよ。人は元を辿れば。人が原因じゃなくて社会とか世界が原因でそうなってしまう人もいるんで。」 

 

 なるほど、と僕はこの言葉を聞いた時にプレイ中や読書中に感じていた「敵対者は誰なのか」という事柄に納得した。

 

 この物語には悪は存在しない。悪らしき者は何かしらの環境によって、仕組みによって、社会によって、世界によって変わっていく。

 

 このゲームはどこまでも人生的なゲームなのだ。絶対的な悪は存在しない。誰しもが弱く、脆い。だからこそ悪に走らなければいけない時が訪れ、そうした役柄に落とされた存在がたくさんいる。

 

 このゲームにはそうした「悪に堕ちてしまった者」たちのどうしようもない残酷な世界で希望をつかみ取る物語なのだ。

 

棒と縄

 小島監督が発売前から「棒と縄」という言葉を呟いていたのを見ていた。僕は残念なことに安倍公房の本は三冊ほど持っているのだが『なわ』は所持しておらず、読んでいない。なので、ここで語られる文章はそうした書物を考慮した文章にあらず、主観に過ぎない。

 

 『DEATH STRANDING』という作品には多くの「棒と縄」が出てくる。例えば、ゲーム序盤で勝手に身につけられている手錠型端末だ。

 

 誰かを束縛してしまう手錠が、この世界では連絡手段のツールとして機能している。このビジュアルには圧倒的に驚かされた。拘束という「棒」の手段を誰かを繋ぎ止めるための「縄」として機能している。

 

 そして終盤で主人公:サムがビーチから帰ってこなくなった時に、一丁の銃がサムを世界に繋ぎ止める「縄」の手段に切り替わる。

 

 そしてノベライズ版を読みながら、ゲーム中には感じ取ることができなかったひとつの台詞に心を刺激される。

 

 「絶滅を突き付けられたときのあがきこそが、生命の進化だったのだ。絶滅は消滅ではない。絶滅こそが希望だったの」(ノベライズ版『DEATH STRANDING(下巻)』308ページより引用)

 

 この物語は人類の足掻きを泥臭く描いた作品だ。

 その中で絶滅が迫っている世界で、アメリが作中で発したのは「絶滅こそが希望だった」という事だった。

 

 絶滅という「棒」が人類にとって「縄」になりえる。

 

 「銃なんて、ここでは必要ない。別の使い途があるから」

 

 とサムに言うアメリ

 

 人に風穴を開けてきた銃という「棒」。多くの戦争で血で洗浄されたその兵器に、別の使い途を示す。

 

 現実問題、アメリカでは銃の乱射事件が消えることは未だない。未だこの世界では「棒」が「棒」としてしか扱われていないのだ。

 

 例えば今年2019年11月17日と18日に銃に関する事件がアメリカ・オクラホマ州ダンカンとカリフォルニア州で起こった。

 17日の夜にカリフォルニア州では銃乱射事件が起こり、銃規制の声がさらに高まっていく。18日にはダンカンで銃発砲事件が起こり、三人死亡している。

 

 こうした事件が未だに消えない。

 

 『DEATH STRANDING』はそうした世界に対し、別の選択肢を提示している。とても力強い作品だ。

 

www.huffingtonpost.jp

 

終わりに

 書き終えるのが前編、後編合わせて遅くなりましたが、とても楽しいゲームであり、物語でした。

 多角的に描かれていく物語は一度では絶対に満足できない。何度も味わうことで、より自分の中で厚みを増していく物語構造だと思います。

 

 これを少数精鋭でそれも短期間で作り上げてきたスタッフの皆さん、小島監督

 

 お疲れ様でした。新たなゲームも楽しみにしています。

 

【ネタバレあり】サムは荷物を運んだ。僕たちは何を運ぶ。『DEATH STRANDING』(前編)【感想】

 先に、感謝を述べさせていただきます。

 コジマプロダクション様、各関係者様、そして小島秀夫様。

 

 この作品が――ゲームが自分にとってかけがえのない物になりました。

 誰かにとって人生を大きく変えてしまったゲームがありますが、私にとって『DEATH STRANDING』はその一つになりました。

 

 もし、誰かにとって「そこまで良い物ではない作品」だったとしても、私にとってかけがえのない作品であることに価値があるのだ、と教えてくれた作品でもあります。

 

 また誰かにとって「そこまで良い作品ではない」という意見も、誰かにとっての正解なんだろうな、と思い、意見を断ち切るのではなく、見つめ直し繋ぎとめることも学びました。

 

 これは、私にとって人生の一部になりました。

 作ってくれたことに、何よりも感謝をしています。

 これからも応援しております。

 

 

――――――

 

 最高の瞬間というものがある。

 11月9日。予約していた『DEATH STRANDING』が自宅に届く。

 

 他に荷物が届く知らせはない。その日はそれだけが届くことを僕は知っていた。

 待ち望んでいたゲームがついに来た。妻の前ではしゃぐ僕はサンタクロースにプレゼントをもらった気分だった。まるで幼少期に戻った気持ちだ。

 

 僕にとって、最初に体感した最高の瞬間が「配達された荷物を確認した」時だった。

 本ブログでは前編、後編で語りたい部分を絞って記述していきたいと思う。

 まず初めに前編である「システム編」として語りたい事をピックアップする。

 

 

 大きく取り上げてこの4点に関して主観的だが、感想を述べていきたいと思う。

 

 

単純明快な「配達」という面白さ

 

 『DEATH STRANDING』は「荷物」を「どこかへ」運ぶゲームであり、その配達先で〈カイラル通信〉という次世代の通信インフラを繋げていくゲームだ。

 

 プレイヤーは映画の様な映像を魅せられ後、シームレスに主人公:サム・“ポーター”・ブリッジスを操作することになる。

 

 小島監督が発信していた情報を取得している人なら、感覚的に少量ながらでも理解できる部分があると思うのだが、初見の人は圧倒的映像と謎めいた世界に慣れていくのに頭を使うだろう。

 

 そして荷物を持って担ぎ、目的地まで行く。

 

 そうした中で感じるであろうことは「現代のスタイリッシュなゲーム性」を多く体感してきた現代人にとっては、大昔の社会に迷い込んだ様な地道なゲームであるということだ。

 

 前述しているが、このゲームは「配達」が主な目的だ。その上で舞台である北米大陸を次世代通信インフラである〈カイラル通信〉で繋げることが目的となっている。

 明確な目的の中で、主人公である「僕たち」は荷物を運ぶという単純な作業を強いられる。

 

 荷物を運ぶだけで何が面白いというのか? 現実で仕事をしてきたのに、返っても何故仕事をしないといけないのか?

 

 その言葉も分らなくはない。序盤は世界観に感嘆し、音楽に浸り、映像に魅入られる。そこにはゲーム性において「凄く面白いゲームだ!」と声を大にして言っていいのか悩ましいほどに、物語という媒体に浸ることのできるゲームであり、ゲームというよりは映画そのものだ、と思っていた。

 

 しかし、物語を進めていき、身の回りのインフラ技術も備わってくると「配達」というこれまで行ってきた労働が一変する。

 

 これまでは歩くだけだった。他には梯子やロープなどの道具を駆使して道を踏破していくだけだった。だが〈カイラル通信〉を繋いでいくことで、身の回りが整備される。

 

 歩くだけの運搬ではなく、大きな橋を渡るなど、車を使うなどの移動手段が増える。自身の選択肢が広がる。ただ依頼される荷物だけを運ぶのではなく、誰かが運べなかった荷物も運べる。

 

 この「どこかへ運ぶ」という単一な作業がとても面白い。何故なら単純だからだ。このシステムに複雑性が組み込まれていたのなら、ここまで荷物を運ぶ快感はなかっただろう。

 

 しかし、このゲームにはそうした労働が楽しくなる。誰もが楽しくなっている。荷物を運ぶという単純明快な仕事がこれほどまでに楽しい物なのか、と驚いた。

 何より、誰かが待ってくれている場所に荷物を届け、その誰かからの感謝が飛んでくる。そんな些細な事が自身にとっての喜びに繋がる。

 

 このゲームはどこまでもポジティブだ。それが良い。労働というものの単純さに加えられた感謝が。多くの配達人を喜ばせている。単純明快な面白さがこのゲームには存在している。

 

 単純明快な荷物の運搬に僕の心は次第に、最高の瞬間を積み重ねていた。

 

 

音楽に助けられるというこれまでにない接続性

 

 小島監督は多くの人もご存じのように音楽にも造詣が深い。

 本作にも「音楽」という存在は「僕たち」と共に、このゲームの中で生きている。

 

 ここで考えたのは『メタルギアソリッド ファントムペイン』をやっていた時に感じた「音楽」とは様相が異なっていた事だ。

 

 本作での「音楽」というのは、どこか特別な場所で聞けるものになっている。

 主人公であるサムが音楽プレーヤーを所持して、好き勝手に音楽に接続できるわけではない。

 

 本作での音楽の立ち位置は、特別なものになっている。特別な場所で、特別な時に聴くことができるのだ。

 

 現代では、多くの娯楽が携帯一つで楽しめるようになった。僕も20代前半なので、そういった環境の中、成長してきた。電子情報とともに、この身は時間を喰らっていた。

 

 音楽が今ではどこでも聞ける。電車の中、仕事場、レストラン、学校、本屋。

 どこでも接続ができる現代で、本作品はその接続性が維持されてはいない。

 

 個人的に好きなのがSILENT POETSの『Asylums For The Feeling』だ、

 

「death stranding ポートノットシティ」の画像検索結果

 

 これはとある依頼の到達点前で流れる曲。

 

 僕はここでも最高の瞬間というのを体感する。再び体感したこの感動は、これまでの音楽や現代で誰もが接続しているインターネットについて思い耽ってしまう事になる。

 

 まず、この曲が流れた構造の凄い所として、スキップができない下山中に流れ、それもある程度の距離を構築しているという点だった。これも計算されているのではないだろうか、と思っている。空いた距離が、僕と音楽の溝を埋めていく。

 

 今ではYouTubeや配信サイト等で何秒かのスキップ機能が常備されているのを知っている若者の方が多いのではないだろうか。

 

 この音楽システムはそうした現代と対極に位置している。物語は飛ばせない。流れる曲は音量を下げるか、目的地に一直線で高速で到達する以外にない。しかし、そういった行動に出た人が果たしてこのゲームを完結させられたのか、気になる所だ。

 

 そうしたシステムの中で、音楽に助けられる感覚を僕は知っていく。

 

 洋楽何て嗜む程度にしか聞かない僕が、知らなかった曲を聞いて、次第に助けられながら曲自体を好きになっていく。

 

 娯楽というのはこうだったんだろうな、と知らない昔を強く感じさせるこのシステムに僕は心を強く打たれた。誰もがネットに接続できる時代になった今では、音楽というものは、そして物語というものは楽しみ方が変わった。

 

 こんな物言いをしても僕は二十代前半だ。昔何てわからない。わかったつもりでいるんだ。昔の事は昔の人が良く知っている。

 

 けれど、今の時代を生きてきた。だから、今の時代はよく視える。

 

 楽しみ方が変わった娯楽はより接続性が増した一方、切断性も加速していく。それが悪いわけではない。楽しみ方というのは単一的ではなく、各々の楽しみ方があってこそだと僕も思う。それが娯楽というものではないのか、とすら思っている。だから、切断性が増してもそれはそれで時代なのだな、と噛みしめる。

 

 しかし、主観的な哀しさがそこにはあると思っている。

 

 蔓延する音楽はCDではなく、今ではダウンロードやYouTubeで聞くような時代になってきた。皆がそうではない。そちらのほうが接続しやすく、簡易的だ。『ドラえもん』に登場する〈どこでもドア〉が多くの自宅にあったら、誰しも使いたいだろう。そういうものだ。便利な物は、使いたい。

 

 だが、そこにあるのは新たな娯楽という形式の内部に潜む、より進化した切断性だ。効率化された娯楽には、自身の楽しみたいものを楽しみ、切り捨て、好きなもので固めるという性質が潜んでいる。

 

 そんな時代の中で、『DEATH STRANDING』という作品は稀有な接続性を見せてくれている。

 

 嫌いな音楽を一旦折り畳み、訪れることのない〈いつか〉という時間を迎えるときに聴こうとするのではなく、旅の中で無理やりという言い方はよくないが、そうした手法で届ける。

 

 じめじめとした地面を、時間を奪う雨が降る中――――音楽と共に目的地へ向かう。

 誰かに荷物を届ける傍らで、音楽に助けられ、音楽を知っていく。

 

 そんな中で気が付く。

 

 「この音楽、案外悪くないな」

 

 僕はそうして音楽に助けられ、好意を寄せているのに気が付いていた。

 

 音楽はこうして僕と接続し、身体を支えてくれていた。知らなかった曲を次第に好きになり、思い出の曲となる。これはこのゲームにしかない面白さであり、昔ながらの娯楽に対する視点ではないだろうか、と僕は思っている。

 

 前述しているが、プレイした全員がそう感じるわけではない。

 

 これは主観的な話だ。ここには主観しかない。僕の今の正解であり、誰かにとっての正解では決してない。そして正解だからと言って、全てにおいて正しいわけではない。一つの答えに過ぎない。

 

 だからこそ言えるのだが、僕にとってこのゲームは正解なのだ。素晴らしきものを、教えてくれたのだ。かけがえのないものになった。「最高の瞬間」を与えてくれた。

 

 

「いいね」だけで描かれる無償の愛

 

 小島監督はとあるインタビューでこう発言している。

 僭越ながら、こちらに引用をさせていただく。

 

 「いいね」があるじゃないですか。あれはポジティブなんですけど、ネガティブがないことに「何でですか? 」と。普通SNSではあるじゃないですか、それとお金にならないということになかなか同意してもらえなくて。ゲームってやっぱり自分の有利にならないと、そういう行動をしないんですよとスタッフが言うので、ここが難しかったです。「それをやってしまうと普通のゲームじゃないの? とりあえず“いいね”は無償の愛だ! これをまずやりましょう」と創り出したんですけど。(『「DEATH STRANDING」発売直後の小島秀夫監督インタビュー“いいねで繋がる無償の愛を届けたかった”』より)

 

 『DEATH STRANDING』は発売する以前からどういうゲームになるか不鮮明なものだった。世界観も謎めいており、ファンはわくわくするが、それ以上に「どういうゲームなのか」というのは一切見えてはこない。

 

 しかし、〈東京ゲームショウ2019〉にて公開されたプレイ映像にて、このゲームが他者とどう繋がっているのか等の説明が入ると同時にSNSと同様の「いいね」を送れるシステムであることも開示される。これまで不明だったゲームの内情が、少しずつ僕たちの元へ運搬された。

 

 その時は「いいね」を送れるなんていいね! ぐらいの駄洒落を言っていたが、実際にゲームに触れ、世界を旅する中でこれは本当に凄いシステムだなと思うことになる。

 

 まさにこれは小島監督が描き出す〈無償の愛〉そのものだった。

 

 『DEATH STRANDING』には建築要素がある。橋、雨避け、簡易ハウス、充電塔、ポスト、ジップラインなどなど。数多くの便利な道具が〈カイラルプリンター〉という高度な技術で現実に反映される。

 

 これは無限に建設できるわけではなく、とあるエネルギー的な立ち位置にあるものを費用として建設される。なので、どこでも無限に建設ができるわけではない。

 

 これらの要素は自分だけが利用するものではない。他者と共有し、その他者は自分でも建設することもできるが、欲しいと思っていたところに忽然と建っているそれらに感謝をし「いいね」という数値を残していく。

 

 この「いいね」というものは、ただ送るだけだ。そこにプレイヤーとしての見返りはない。

 

「いいね」が貰えて嬉しいと感じる人もいると思うし、「いいね」を送る事が凄く楽しい、と思う人もいるだろう。しかし、それに対しあまり意味を感じられずに黙々と孤独に進む配達人もいるはずだ。それはそれで各々の楽しみ方だ。良いと思う。

 

 しかし、そうした孤独な人たちすらもこの〈無償の愛〉は繋げてくれる。

 

 『DEATH STRANDING』に建設させられた物体は他者と共有される。オフライン状況であれば、共有はされないと思うが、そうした共有された建設物に贈られる「いいね」は積み重なって合計値が表示される。それとともに常時プレイ画面に誰が「いいね」を送ってきているのか、という繋がりを表示してくれるのだ。

 

 孤独であっても、孤独ではないというのはこのことなんだろうな、と強く感じる。「いいね」を貰うことを望んでいなくても、誰かにとっては適当に建設していたとしても「ありがとう」に変わる。一人で旅しているが、どこかにいる誰かに感謝をされる。感謝しかされない。

 

 これが〈無償の愛〉か、と感嘆すらした。

 

 これはTwitterで「いいね」欲しさに呟いた内容とは訳が違う。そういった繋がりではなく、純粋に建設し、自分でも便利であろうと考えた末に建設したものが、時間を置いて感謝される。人に存在する欲求から生まれる「いいね」ではなく、の形がこのゲームにはある。

 

 次第に運搬の為に建設していたものを、自分自身は「誰かの為に」建設し始めることだろう。僕もその一人だ。自分の為から、誰かの為に動き出す。そうした行動を促すゲームはきっと『DEATH STRANDING』だけではないのだろうか。

 

 僕は見た。〈無償の愛〉がどれだけ素晴らしくて、人を動かすのかを。

 

 誰かの為に、僕は荷物を運び、建設物を構築していた。誰かと繋がるために、動いていた自分が明確に存在していた。

 

 この世界を超えて誰かと“繋がった”のだ。確実に。愛と共に。

 

 「最高の瞬間」は“繋がった”先にあった。

 

 

これまでのゲームに存在した「アイテム」の根底を覆す世界観

 

 『DEATH STRANDING』には色々な「アイテム」が落ちている。それは誰かが運びきれなくて落としていった荷物であったり、プレイ中に使うどこかへ上る・渡る為の梯子だったり、主人公:サムが履く靴だったりと多岐に渡る。

 

 僕が感じたのはこれまでのゲームとは違った観点がこのゲームの中の「アイテム」には存在しているな、という事だった。

 

 これまでのゲームは(と言っても僕のやってきたゲームというのは数少ない)消費物だった。『マリオ』ではキノコで大きくなる。『ポケモン』ではモンスターボールはやはり個人的な消費物だ。

 

 『DEATH STRANDING』はそうではない。

 

 全体的な消費物であり、共有物なのだ。そこに気が付いたとき、僕はまるで劇場で感動した時にスタンディングオベーションをしてしまう感覚に身を包み込まれた。更に「小島監督!」と声を発した事だろう。思わず、隣にいた観客は驚いたことに違いない。

 

 これまでにない性質が多角的に組み込まれ、僕の身体は情報の海で洗われる。清められるわけでもなく、黒粘液体(タール)で覆われるわけでもない。魂が始まり(ゼロ)へと洗われるのだ。

 

 全体的消費物として出現するこの世界の「アイテム」は、使い捨てることもなければ、他者に何かしらの悪戯として使用できる事はない。拾うか拾わないかだけを純粋に問われている。

 

 例えば、誰かが運べなかった荷物。それを拾って代わりに運ぶ。その荷物は運ばれることが消費ではない。誰かが待ち望んでいた荷物だ。感謝をされ、その荷物はその誰かが使ってくれるのだろう。僕たちはその先を知らない。

 

 そして誰かの梯子だったりなども、ただの消費物ではない。梯子やロープなどの「アイテム」には、使用すると他者の世界に反映する。そこでまた誰かの為に使われる。感謝をされる。

 

 確かに消費されるだけの「アイテム」は存在する。ゲームだから当然そこは存在してしかるべきものだと思う。だが、それだけではない。

 

 このゲームにはゲームを超えて、誰かとの共有物が存在し、そこにも感謝が生まれる。そして誰かがこの世界に存在していることを感じる。荷物を運んでいるのは自分だけではないよな、という孤独さとは無縁になる。

 

 ゲームという枠を超えて、世界と繋がれる。個人的消費物だった「アイテム」が世界的共有物へと変わった。これは、小島監督がインターネットを見て、こうなるべきなんだよな、という思想を反映したものではないか、と推測に過ぎないが思えてくる。

 

 それを主観的に理解した時、「最高の瞬間」がまた僕を襲ったのだ。

 

終わりに

 

 前編である「システム編」はここまでです。後半には「ストーリー編」を用意しています。小説を読んだ上で書き終えたら投稿したいと思います。

 

 何度も感謝ばかりしているのですが、このゲームを体験できた事、クリアできた事に感謝しています。

 

 この記事は(他の記事も含めて)主観的な事しか述べていません。解釈ももしかしたら、誰かにとって違っているだろうし、そして制作者さんの方では「そうではない」と言われるかもしれません。

 

 けれど、僕にとっては正解なのです。誰かの意見を否定することもなく、私はこう感じたよ、というのを正直に発しています。いつも思っている事ですが「これは僕の正解であって、貴方の正解ではないですよ」という事をわかってくれたら幸いです。ただ、製作者さんの正解は順守したいな、と思います。

 

 僕たちが発しているのは教科書に載っている言葉ではなく、思考上で構築される自分の言葉です。なので、そこには貴方なりの正解があるわけで、他者が介入してもあまり意味をなさない事です。誰かがこのゲームを否定したところで、否定した人にもその人なりの正解があります。

 

 サムは荷物を運んでいたけれど、僕たちはこの時代で何を運んでいくのか。

 

 それは貴方の正解という概念の中に収まっているはずなんです。

【ネタバレあり】作品自体が成長し、多角的に描かれる物語性『蒼穹のファフナー』【感想】

 2004年7月に放送をしていたアニメ『蒼穹のファフナー』がYouTubeで無料配信されているので、見直しました。公式がここまで大きく、EXODUSまで公開しているのは凄く新鮮で、そして11月にはシリーズ三期目の『蒼穹のファフナー THE BEYOND』二回目の先行上映が行われるそうです。その為の無料配信だと思います。

 

「蒼穹のファフナー 一期」の画像検索結果

 

 自分がこの作品に初めて触れたのが、小学校一年か二年生の頃になります。その時は全くこの作品の設定とか、心情とか全くわかっておらず、ただロボットのデザインが素朴だな、とかよく人が死ぬな、とか。漠然とそんな事を考えており、この物語を楽しめていなかったと思います。

 

 その「何となく」のまま、2015年には第二期である『蒼穹のファフナー EXODUS』を視聴しました。多分、その時も何か強いものを感じたわけではなく、漠然と見続けていたと思います。

 

 そんな自分が、今更こんな機会に見終えた『蒼穹のファフナー』。

 

 とても前を向き続け、失ったモノを大事にする物語なんだな、と思い知らされました。

 

 

◇難解な設定の上に、段階的に定まっていく作品

 

 挨拶代わりに「失ったモノを大事にする物語なんだな」と言いながら、初っ端で突っ込んでいく。良い点は他の方が多く語っているでしょうから、自分は粗探しという訳ではないんですが、気になった点をあげていく。

 

 映像やその中で描かれる表情などには、時代を感じる。なので、ここで躓いたりする人もいるのではないだろうか。この作品自体の構成がストーリー自体の流れはわかりやすいけれど、細かな描写や用語などの解説を懇切丁寧に挟んでくれるわけでもないので、疑問点が生まれやすい人は最後まで見られない可能性は大きい。

 

 序盤の構成がそもそも疑問で「現代の物語」というものに慣れてしまった人にはとっつきにくい面は重々あるだろう。

 

 見る側に努力値が求められる。そんなアニメなのは間違いない。

 

 第一話で真壁一騎(主人公)が人型機動兵器〈ファフナー〉に搭乗する場面から始まり、映像は子供時代に変わる。


 そこで少年少女は壊れたラジカセを修理して、そこから聞こえてきた

 

「あなたは、そこにいますか?」

 

という謎の問いかけに、

 

「「「「「せーの!」」」」」

 

 そして題名が映り、細波が聞こえ始める。

 

 「なにこれ?」と思う人も少なからずここでいるだろうし「いやいや、そんな序盤から突っ込まなくても」と言う人はいるだろう。後者の人は間違いなく、このアニメを見終え、傑作と信じている人だ。傑作なのには異論はない。間違いなく、傑作だと思う。

 

 ただ、これは段階的に完成されていく作品、と個人的に判断している。


 2004年のアニメ業界の忙しさに詳しいわけでもないのだが、今も尚アニメ業界は各段な効率化を迎えているとはいえ、多忙なのには変わりないだろうし、様々な監督やアニメーターがTwitterで悲痛な叫び声を上げている時には「頑張っているんだな……死なないでくれ」と祈っている。

 

 2004年のアニメ業界が忙しくないわけはない、と個人的に思っていて、そんな中で視聴者には早く作品を提供したい。そんな気持ちを持つのは当然だと思うし、そんな意思の中で放映されたのがこの作品だとは個人的には考えている。

 

 なので、メインヒロインの遠見真矢の口調が第一話から今に至っては全然違うなどの、一種の綻びが垣間見えるが、それもひとつの面白さかな、と思える。ただ、全員がこれを「面白い」と捉えることができるわけでもなく、だからこそ今となっては努力値が必要な作品になっているのは否めない。

 

 そして前述しているが、この作品は難解であり、設定集を片手に視聴を求められる形式の作品となっていると思われる。一話の時点で〈フェストゥム〉、〈ニーベルング・システム〉、〈ジークフリード・システム〉、「総士、俺たちはどこに行くんだ」からの「楽園だよ」で視聴者の脳内では解決することのない疑念が残ってしまう。


 これらの用語に解説があるわけではない。映像での視点を用いて、これがそうなんですよ、とは示してくれるが、果たしてこれが何のために用意されているのかという点を、第一話では示さない。そして、第一話では主人公の真壁一騎ファフナーに搭乗して、島の危機を救いに行きましょうか、という所で終わってしまう。

 

 現代において、物語が様々な角度で面白くなっていく中で、果たしてこの古臭さを見て欲しい、というのは過酷な物言いかもしれない。


 一話でわかるといったら、何やら厨二臭い主人公の相棒、皆城総士とよくわかんないけど校舎裏で喧嘩をする主人公。そして、何だかイケナイ大人の雰囲気を出す女狐。よくわからない怪物。ど田舎での閉鎖的な生活風景。突然の死。

 

 よくわからんアニメとしては完成されているように感じられ、続きを見るのに躊躇してしまうのではないか、と思う。

 

 けれど、自分としては第六話「翔空-ぎせい-」までは見て欲しい。ここからこの作品のドラマが動き出す。難解さは解決することはないと思うが、もうそれは調べて解決をしていくしかない。誰かが教えてくれるわけではない、自分が知るしかない。そういう事を教えてくれるのも、もしかしたらこの作品なのかもしれない。

 

 奇しくも、フェストゥムの脅威などを知ることもなかった真壁一騎たちと視聴者はそういう視点でクロッシングしており「不明な点は自分たちで知るしかなかった」という所もまた、エモーショナルな観点なのかもしれない。

 

 話は少しそれてしまうが、自分は一話で「面白くない」という理由だけで、もしくは誰かが発した意見に便乗してあらゆる作品を拒絶する行為はあまり好んでいない。これが仮に「肌に合っていない」とか「感性が違うんだろうな」というものでなら、自分としては無理してみる必要はないだろうな、と思っている。

 

 だが、今の時代ではあらゆる側面での接続を果たしてしまった人間にとって――日本人という枠組みしか知らないのだが――自分の意見を模索するよりも先に、他者の意見を見つける方が簡易的になった。

 

 その他者との接続が、自分の意見を尊重することはなく、物語の踏破をしないまま、登ったばかりの物語という山を下ってしまう。

 

 もちろん、これは善悪の話ではないし、どちらかが正解というものでもないだろう。だが、自分にとっては第一話で切ってしまうのは悲しいな、と思ってしまう。全部の物語に対し言っているものではなく、この場合では「難解だからといって/理解できないからといって」第一話で切るのは悲しい、ということだ。

 

 といっても、押し付けるべきものではない。見たい人が見ればいい、と思っている。

 


◇戦っているのは子供たちだけではない

 

 比較に上げてしまうのは、互いの作品に申し訳ないのだが『新世紀エヴァンゲリオン』という傑作がある。

 

 あれを個人的に「子供たちが全面的に戦っており、大人は基本的見守っている作品」だと思っている。勿論、これは新劇場版ではなく、テレビ版を指しているのだが、大人は見守り、世界を守るのは子供の役目という押しつけを魅せられているような気分にさせられる。

 

 これは、エヴァンゲリオンに搭乗できるのが碇シンジ含め彼らだけであり、大人は管制室で指示を飛ばすなどの助力はしているし、機械のメンテナンスは基本的に大人だろう。

 

 しかし、戦闘をしているのは、何か大きなものを失うのは子供たち、という観点を『新世紀エヴァンゲリオン』に見出してしまう。

 

 『蒼穹のファフナー』はそれの対極に位置しており、本作では大人もまた失う側に立っており、現在進行形で子供たちとともに前を進んでいく作品となっていく。一期だけではなく、二期である『蒼穹のファフナー EXODUS』も含めそうした大人も、子供も失いながら前を行く作品として出来上がっている。

 

 一期では日野洋治が『蒼穹のファフナー』の舞台と言ってもいい竜宮島を「あそこは我々が忘れかけていたものを必死に集めた巨大な記憶の保管庫だ」と言っていたのが、大人たちも前に進むという証であり守る側に立っている、と感じる。

 

 それは「守るべきものがない戦いは無意味だ」と言っていた真壁一騎の父親である真壁史彦の言葉にも頷ける。〈フェストゥム〉に脅かされ、愛すべきものたちを殺された末に憎しみを持って、怪物たちの殲滅を望むばかりではなく、竜宮島に住む大人たちは、世界を守る前に、島自体を、子供たちを支えている。

 

 この作品はそうした守るべきものが大人にも、子供にもあって、両者が失いながらも、前を行く作品なのだ。

 

 

◇存在するという意味

 

 この作品の難解さ――というよりも、哲学的な観点を感じさせるのは「存在への問い」だろう。
 
 前述している人類の敵として現れる〈フェストゥム〉は人類が外宇宙探査機に載せた、宇宙にいるかもしれない知的生命体に向けたメッセージを読み取り、「あなたはそこにいますか」という言葉を発言するようになった。ちなみにこの設定は作中では開示されない。

 

 本作ではこの「自分は本当に存在しているのか、今ここにいるのか」という問いかけを自分自身に強く、段階的にしていく作品だ。

 

 例えば真壁一騎は、親友の皆城総士との過去の出来事により、自己否定の強い人物となってしまい、自分がどこにもいなくなることへの恐怖を常に抱えて戦っている、と設定されている。そこから本作とのテーマと繋がっており、自分が存在している意味というものを確固たるものへ変質させていく。

 

 この感想を書いている自分も、今でも自分の存在意義というものを考えてしまうことはしばしばある。自分が何故ここに存在して、このように物語の感想を冗長的に書いているのか、面白いだけではいけないのか、様々な存在の所在を問うことをする。

 

 だが、こうした問いかけは第三者的に見れば――一般的な視点で、とも言い換えることもできるが「考えても仕方ない事」だとは思っている。大なり小なり、多くの人は多様的な苦悩を抱えて生きているし、悩みがない人間はいない。だが、この世界では――この国ではかもしれない――そういった真面目な問いかけ、真っすぐな問いかけは「意識が高い」と揶揄されてしまう場合が少なからずあるだろう。

 

 そういうした「意識の高さ」を感じてしまう人には、このアニメは向いていないだろう。肌に合ってはいないと思う。

 

 逆に、自分を否定された経験がある人には、何かしら響いてくる物語性でもあるし、失っていく中でも、失っていくものを見失わないこの作品に、心の片隅で涙を流してほしい。

 

 あなたは、本当にそこにいるのか。自分は本当にここにいるのだろうか。

 

 そんな事を、視聴しながら考えてしまう。

 

 

◇希望は、絶望の中にある。絶望は、希望の中にある

 

 本作では多くの人物が死んでいく。「鬱アニメ」と称されているこの作品だが、個人的にはそれは鬱ではない。厳密には、誰かにとっては鬱であるのだが、死が必ずしも鬱ではないし、絶望ではない、という事をこの作品は教えてくれる。

 

 その死がどこかで何かしらの形として成され、繋がっていく。というのを今も尚進み続ける作品だと思っている。その繋がっていくのは、死だけではない。

 

 〈フェストゥム〉が人類を惨殺するのも、惨殺しているという観点は人類が持つものであり、EXODUSで出てきたアザゼル型という存在は確かに憎しみという概念を持っての惨殺をしているかもしれないが、初期の〈フェストゥム〉は無に帰すことだけを望んでいた。なので、人類側からしたら、惨殺と侵略に違いないが、彼らにとっては「祝福」に過ぎない。

 

 人類軍が竜宮島を狙って、ノートゥング・モデルを奪取しようとしているのも、世界救済の為であり、〈フェストゥム〉滅亡への前進を目指してのことだろう。人類軍を指揮するへスター・ギャロップにも、人や敵を殺める動機は、それが悪逆的なものに視えてしまったとしても存在している。

 

 竜宮島は、一見すると自分たちの身だけを守ることに専念しているような島と判断してしまいそうだが、彼らにも守るべき者と守るべき場所が存在しているので、人類を救わないわけではない。EXODUSでは、対話という手段を選んだペルセウス中隊を設立した人類軍統括本部大将のナレイン・ワイズマン・ボースと共に竜宮島からは派遣部隊を構成し、平和の為の旅路を始めた。

 

 希望の中に絶望があるように、また絶望の中に希望があるように、この物語の中に存在している勢力は主観的に見れば、悪に見えるが、客観的に見れば自分たちの身を、世界を、人類を救いたいだけなのだ、というのがわかる。

 

 多角的なテーマ性を内包していながらも、第一期はきちんと一騎たちの物語として完結させているところも個人的には物語として見やすく、それでいてこれから広がっていく世界には胸を躍らせた。そして、まだ終わらず、映像に鮮麗さが生まれていき、戦闘シーンは格段に面白いものになっているEXODUSとBEYOND。

 

 まだ終わりがないこの物語を、ぜひこの機会に見られるのなら見て欲しい。

 

 

◇終わりに

 

 色々言っていますが、この作品は多くの事を教えてくれる素晴らしい作品であり、これからもその発展を期待している作品です。

 

 無印の登場人物たちに違和感を憶えたりするのも、作品の成長過程を見ることのできるいいものだと思っています。

 

 現代では、何もかもにクオリティを求めてしまいがちな傾向に少なからずある、と思っていますので、もしかしたらこの古臭く、アクション性の薄い無印には手を付けにくい人もいるのは何となくわかります。

 

 けれど、『蒼穹のファフナー』を視るには、一期を視るしかないのでそれなくして今はありません。なので、見ることのできる人はこの機会に12月15日まではYouTubeにて無料公開していますので、見ることをお薦めしておきます。公開している範囲は『蒼穹のファフナー EXODUS』までの全てです。

 

 また、見逃しても動画配信サービスサイトのHuluで配信されているので、契約しているのであれば、そちらの方がお薦めかもしれません。

 

 11月8日には『蒼穹のファフナー THE BEYOND』が第四、五、六話の先行上映をします。

 

 既に15周年を迎えたこの大きな物語に、これからの期待を込めて感想を述べさせていただきました。

【ネタバレあり】生きることの難しさを、僕たちは知る『終末のフール』【感想】

 伊坂幸太郎さんの『終末のフール』を読み終えました。

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 この物語の構成は『死神の精度』に近いですが、あれよりも一連の物語の接続性は高いものになっているので、各章に登場するキャラクターには密接な関係性がなくても――『死神の精度』では、担当ごとに場所も移り行くわけでもなく――大きな建物を通して、関係を保っている。

 

 あらすじは、

 八年後に小惑星が衝突し、地球は滅亡する。そう予告されてから五年が過ぎた頃。当初は絶望からパニックに陥った世界も、いまや平穏な小康状態にある。仙台北部の団地「ヒルズタウン」の住民たちも同様だった。彼らは余命三年という時間の中で人生を見つめ直す。家族の再生、新しい生命への希望、過去の恩讐。はたして終末を前にした人間にとっての幸福とは? 今日を生きる事の意味を知る物語。

 

 醜い人間模様がありながらも、伊坂幸太郎さんらしさというのがやはりあって、自分が好きな章は『鋼鉄のウール』と『演劇のオール』。他の全ても好きですが、特に好きなのがその二つ。

 

 

◇終末の中で生きていく

 

 この物語の登場人物の殆どは、何かを失っている。これは言ってしまえば、全人類が「生きていくべき時間」というのを小惑星に奪われたと言えるが、そうではなく、軸となる登場人物たちは、何かしらを失い、自責の念のようなものを抱えている。その自責の念から生まれた、宛先のない謝罪を背負いながら、今から歩き出そうか、右脚からか、左脚から進むか、どうしようか、という所から始まる。

 

 伊坂幸太郎さんの暗澹とした物語は、粘り気がある。読んでいくうちに引きずり込まれて、泥だらけになっているような暗澹としたもの。本作にもそれはあるが『アヒルと鴨のコインロッカー』のようなどうしようもない嫌悪感から来るものではなく、人間の暗部を描きながらも、笑顔にさせてくれる点が散りばめられていて、読みやすい。そこがやはり、伊坂幸太郎さんだな、と感じてしまう。読者を幸福に包む、作家だな、と。


 この作品の良いところは、そうした自責の念や失った事柄にどうやって向き合っていくか、という点だ。多くの人々が終末の世界で略奪や殺害などを横行し、恨みや辛みを同じ人間にぶつけ、どうしようもないその感情を洗い流そうとする。

 

 この項目では『籠城のビール』を介して、その失った者を見ていきたいと思う。

 

 この章では、兄弟が復讐を果たそうとする物語が描かれる。これだけを聞いてしまうと『重力ピエロ』のようなものを想起させる。また『重力ピエロ』も読み直して、感想を記述したい。
 
 弟の「辰二」と兄の「虎一」は十年前に妹の「暁子」を殺されてしまう。十年前のある日に、「暁子」は籠城事件に巻き込まれてしまう。そこで三日間、犯人と隔離された状態になっていしまうのだが、終わりは直ぐに訪れた。

 

 三日目の朝に犯人が部屋から出てくると、警察が取り囲んでいる現場の中で、自分の頭部に向けて拳銃の引き金を引いた。取り残された「暁子」は「辰二」や「虎一」からしたら無事と言える。

 

 無事に無事に戻ってきた「暁子」に安心はなかった。身体的、精神的に衰弱した「暁子」を襲ったのは、マスコミだった。

 

 最近だと「京都アニメーション放火事件」があり、多くの人間に衝撃と悲しさを与えた残酷な事件として記憶に新しい。そうした事件の中で「京都アニメーション放火事件」に限らずだが、マスコミが取る行動は大きく取り上げられることがある。

 

 そうした背景はこの章でも描かれており、被害者である「暁子」にマスコミは集り、遠慮なく家の前で張り込みをし、扉が空けばフラッシュをたく。被害者家族を安心させよう、という気持ちは一切ない。

 

 そんな中で兄の「虎一」はマスコミの行動に我慢ができなくなり、テレビ局のリポーターに

 

「どうして、うちに構うんですか。どうせなら、犯人を調べてくださいよ。死んだとはいえ、原因はあちらなんですから。加害者ですよ。被害者のうちを、どうしてそう追い回すんですか」(本編101pより)

 

 と言った。

 

 この光景がテレビ番組に映し出される。たまたまそれを見た兄弟たちはスタジオの番組司会者が、

 

「そりゃ、面白いからに決まってますよね。死んだ犯人を追うより、この人の家を取材したほうが、面白いですから。被害者面している人間ほど、タフなんですよね」(本編101pより)

 

 と口にする。

 

 勿論この言葉に、被害者である彼らはどうしようもない怒りを覚える。妹を籠城した犯人のように、今度は彼ら兄弟がこの司会者を捕まえて、籠城してしまいそうなほどの憤慨を憶えている事だろう。

 

 そしてこの言葉から、この怒りから「辰二」の兄「虎一」は少しばかり変わってしまい、これまでは「虎一」と呼んでいたはずが、兄貴として、自分の兄という呼称でしか呼ぶことはなくなった。

 

 その後、「暁子」は自殺をしてしまう。「暁子」を殺したのは、他でもない。マスコミだ。

 

 それから母親も死んでしまった兄弟の中には――特に、兄貴である「虎一」の内には冷めない怒りが燃えている。「虎一」が見据えるのは、あの台詞を吐いた司会者。

 

 彼らは世界が終わる中、司会者を人質に籠城を始めた。

 

 この物語の良い所は、対象の司会者を悪で終わらせない、という所だった。普通、ここは司会者を殺して、何かしらの達成感やその後の展開を繋げがちだと個人的には思っているのだが、伊坂幸太郎さんの描き方はそうではなく、兄弟たちにとって悪だった存在を生かす。この終わっていく世界の中で、必死に生きろ、と言って見せる。そして、その生かすという手段も恰好良いのだ。

 

 なるほど。この物語は、どうしようもなく、生きていく物語なのだ。

 


◇明日死ぬとして

 

 これは終末世界の中で、どう生きていくか、生きていくとはどういうものなのかを物語る作品なんだな、というのがわかった。

 

 そしてそんな中、伊坂幸太郎さんならではの恰好良い男らしさのロマンを追求したような、他の伊坂作品でも書かれているような。格好良さが『鋼鉄のウール』には存在している。

 

 児島ジムというキックボクシングジムを運営している場所に、鋼鉄の「苗場」とジムの「会長」、そして、主人公である「ぼく」が終末の世界で、小さなジムの中、ミットやサンドバックに向かって衝撃を与えていく。終わる世界の中で、なぜ彼らは挑戦相手もいないはずのこの世界で鍛錬をしていくのか。

 

 「ぼく」は小学生四年の時にこの児島ジムに通おうとする。その動機が「負かしたい相手がいる」というものだった。その相手が威張っており、一つ上の学年なのだが、彼はその威張っている姿に不愉快な感情が溜っていき、どうにかしたい気持ちでジムに通うという選択肢を取る。


 しかし、何かを習うとしてなぜ児島ジムでキックボクシングなのかというのを「会長」に問われる。

 

 「ぼく」は「苗場さんみたいになりたいから」と一カ月前に見た、ある試合での「苗場」の勝利姿を思い浮かべていた。それから一年間通った「ぼく」は負かしたい相手という存在すら忘れて、「苗場」を見ていた。純粋な強さというものを求め出していた。しかし、小惑星によって世界の寿命が限りなく摩耗した瞬間に、ジムに通っている余裕などは勿論なくなってしまった。

 

 世界の終わりが告げられて五年後――世界が小康状態へと一旦落ち着いたある日の夕方に「ぼく」は街を歩き、ジムが残っているのを確認する。そこで練習をしている人がいることもいて、驚いた。

 

 あの頃と変わらずに、「苗場」と「会長」が練習をしていた。

 

 もうここだけでも格好いいな、と思ってしまう。こういう格好良さというのが、伊坂幸太郎さんの作品を読んでいて数々目にする。

 

 「苗場」には五年前、大事な試合を前にしていた。「富士岡」という男との戦いだ。結局、その試合は小惑星によって中止になってしまったのだが、「ぼく」やそのジムにいる主人公の先輩は「苗場」が勝つと確信する。

 

 その確信とともに、「ぼく」はある格闘技雑誌に載っていた「苗場」のインタビューを想いだしていた。

 

 反射的に、前に読んだ、格闘技雑誌のインタビューを思い出した。苗場山がこういっていたやつだ。「数字で表せることに興味がないんですよ。数学苦手だったし。だから、何戦何敗何勝とか、あんまり意味がないんです。だいたい、勝ち負けって、試合の結果だけじゃない。試合を観終わった観客の気持ちとか、俺自身の気持ちとか、そういうのも含めて、勝たないと」
 「なるほど」と相槌を打ったインタビュアーはきっと、苗場さんの言葉を理解できなかったに違いない。「練習は好き?」と次の質問に移っていた。
 「嫌で嫌で仕方ないですよ。あんな苦しいこと好きな奴、いないです」
 「でも、やっぱり負けたくないから、自分に鞭打つわけだ」
 「というよりも、あのオヤジが許してくれないですよ」と暗に会長のことを言う。それから、「でもとにかく俺は、いつも、自分に問いかけるんですよ」苗場さんの答えは、シンプルだけど、それを読んだぼくは、はっとさせられた。
 「問いかける?」
 「俺は、俺を許すのか? って練習の手を抜きたくなる時とか、試合で逃げたくなる時に、自分に訊くんです。『おい俺、俺は、こんな俺を許すのか?』って」(本編197pより)

 

 もう、無茶苦茶に恰好良い。この言葉って、今活躍しているあらゆる「プロ」の人が抱いていたりするものなんじゃないかな、と思うし、なによりこういう言葉や生き方というのは恰好良い。

 

 今の時代、スマートフォン一台あれば楽ができる。何かをしている最中に視聴したい動画があれば、ワンタッチでYouTubeに接続ができる。何か、不満があればTwitter等で呟ける。孤独を感じたら、誰かと接続できる。そういう時代の中で――勿論、この作品が発表されたのは2004年の『小説すばる』の雑誌からであるため、Twitterなどはまだ顔を出す前なのだが――こうした自分に問いかけるという行為は(少なくとも日本というミクロな観点で言えば)他者からすれば「何を言っているんだ、アイツは」となりがちだと私的には思っている。

 

 何せ、意識が高いなどの言葉を浴びせて、小馬鹿にする連中なんてのはわんさかいるわけだ。そういう奴らは消えることはない。むしろ伝染して、増えていくだろう。そうした中で、この「苗場」のように、問いかけるられるのか? いや、難しいのではないか。

 

 自分はこんな自分の意思さえも、抑えつけて生きていかないといけない現代社会を許せるのか? 許していいのか? 

 

 そう問いかけたい重い言葉だと思う。

 

 そして「苗場」が格好いいのは、これだけではない。

 

 俳優と、無口で愛想がない苗場さんとのやり取りはあまりに噛み合わず、気の利いた掛け合い喜劇のようで可笑しかった。しゃがんだ姿勢のまま、全部、読んだ。「苗場君ってさ、明日死ぬって言われたらどうする?」俳優は脈絡もなく、そんな質問をした。
 「変わりませんよ」苗場さんの答えはそっけなかった。
 「変わらないって、どうすんの?」
 「ぼくにできるのは、ローキックと左フックしかないですから」
 「それって練習の話でしょ? というかさ、明日死ぬのに、そんなことするわけ」可笑しなあ、と俳優は笑ったようだ。
 「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?」文字だから想像するほかないけれど、苗場さんの口調は丁寧だったに違いない。「あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」(本編220pより)

 

 最後の「苗場」の台詞が胸に小惑が落ちてきた気分になる。
 この言葉に感動を覚えた人は多いのではないか。こんな台詞が書けるのか、伊坂幸太郎さんはと感動をしてしまった。この「苗場」という人物にはモデルがいるのだが、それを含めたとしても凄い物語だな、と感動してしまう。

 

 そして小惑星によって、世界が終ろうとする中でも、「苗場」は文字通り練習を続けていた。彼の生き方が描かれる。

 

 「苗場」に焦点を当てすぎているが、「ぼく」にも物語がある。小惑星によって、人々が醜さを公にし出した時に、父親が引きこもったり、その父親が母親に暴力を振るったりする家庭に変貌してしまう中で彼はそれらが「許せなかった」。


 それらにどう向き合って、どうしていくのかもとても面白く、代えがたい強さなのだと思う。
 
 だが、この物語で大きく取り上げるとしたら、「苗場」のあの台詞だ。


 明日死ぬとして自分は何をするのか、と問いかけた時に何が思い浮かぶだろう。

 

 ある人は復讐かもしれない。そして、ある人は殺人という行為をしたいがために、歩いている人を襲うかもしれない。そしてある人は、耐えきれないという気持ちから自殺をするかもしれない。

 

 けれどある男は、ジムでいつもの練習メニューをこなす。理想的な生き方で、とても難しい生き方が描かれていた。

 

 

◇終わりに

 

 何を書こうとしていたのか、これを書き出して一週間後の夜。当然だが、忘れてしまっていた。なので、少し終わりを長めに書く。特段、意味はない。

 

 この作品は「世界の終わりで生きている意味はあるのだろうか」という人間の根底を描いている。そのテーマ性はとても暗いが、伊坂幸太郎さんはその暗さと同じくらい明るさも描く。その中に、僕は「人生」と名前を付けていいのか、月並みでどうしようもなくありふれたものを感じずにはいられない。

 

 自責に囚われ、復讐を切望し、後悔を胸に、延滞料金を徴収しに行く。

 

 根底を描きながら――伊坂さんがそう考えているのかは判然としない――笑顔にさせられ、考えさせられる。とても読んでいて充足感を得る読書体験をさせてくれる作家でもあるのだ。

 

 世界が終わるとして、貴方は何をしますか。

 

 僕なら多分、好きな小説を読みながら、自分が書いた下手くそな小説を眺めながら笑っていたい。そして机に向かいながら、書き上がっていない原稿を書く。

 

 そうだな、これは理想だ。とても難しい生き方なのだ。

【ネタバレあり】これは私の物語『The Witcher 3: Wild Hunt』【プレイ感想】

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 無事、『The Witcher 3: Wild Hunt』をクリアした。

 率直に言ってしまえば、一週目では足りない

 そんなところだ。

 

 ただ、switch版も出たり、ドラマ版も制作中なので言いたい事は「買って損はない」……だ。

 迷うぐらいなら、買うんだ。買った先に、広大な世界が待っている。

 

 購入していない人はあまり見ないで欲しい。

 

 

◇分岐するエンディング/仔細な変化

 

 エンディングは3種類用意されており、プレイヤーである自分が主人公:ゲラルトを操りながら、選択した道によって結末が異なってくる。

 このゲームの凄いところは、その『変化』の細かさだ。

 

 膨大な世界でありながら、完璧に世界を構築していて、プレイヤーは若干悪い操作性に慣れながら、世界の旅に出る。主人公には明確な目的がありながらも、多くのサブクエストを〈ウィッチャー〉という変異体として担っていく。

 

 このサブクエストは多種多様な者が存在する。大抵は、化け物の討伐であるが、そこには人間の醜さ、世界の残酷さを知らされる。決して本編だけでは見られない絶望がここにある。

 

 自分は総プレイ時間が65時間ほどであるが、2年をかけて完走した。あまり当時は熱が入っておらず、飽き性もあいまって投げ出していた。少年が空き地でたまたま拾った野球ボールのように、一度投げたらおさらばだったのだ。

 

 だからこそ、本編の内容は希釈だ。記憶は鮮明ではない。なので、この記事全体は、物語の後半部分を中心的に書きなぐっている。中途半端な、僕の感想なのだ。

 

 そして、以下には印象的なサブクエストの感想を記述する。

 

 物語は終盤。
 
 サイドクエストの『猫と狼が遊ぶ場所』がとても印象的だった。このクエストは、小さな集落であるオナートンにて、惨殺事件が行われており、一人の少女だけが生き残っていた、というもの。
 
 その少女によると主人公:ゲラルトと同じウィッチャーが少女以外の村人を殺してしまったそうで、ゲラルトは犯人の痕跡を追う。
 
 そこで出会ったゲータンと呼ばれる〈猫流派〉のウィッチャーは、村人の依頼をこなしたのに対し、約束の報酬とは違う12クランという少額で感謝を述べられ、怒ってしまう。この世界ではよくあることだ。命がけで助けた村人に、命をかけて戦ったと等価値の金額は払えはしない。何か理由を述べ、逃げようとする。そういう世界だ。どちらが悪で善なのかは、どうでもいいことだ。
 
 怒っているゲータンを宥めるために、村長は隠している財宝がある、と誘い込むが、それはゲータンを殺すための口実に過ぎなかった。そこでゲータンは深手を負いながらも村人との戦闘をし、死体を作り上げていく。死んでしまった自身の妹と似ていた少女だけは逃がしてあげた。
 
 僕はゲータンを解放したのだが、そのあとで派生してクエストが出現する。
 
 『好きなものを持っていけ』では、助けたゲータンに自身の寝床を主人公:ゲラルトに教え、そこに隠された財産と手紙をくれる。
 
 そこに記述してあるのは〈猫流派〉は滅んでしまう、というもので、その寝床には討伐した怪物の首が飾られてあった。それもまた、報酬を値切られ、少額で民を救済していたゲータンの残滓だった。その背景がとても悲しく、ウィッチャーという悲しき生き方を物語る。
 
 そしてもう一つ。
 
 『依頼:スケリッジの賞金首』にて、ゲラルトが何者かによって殺されそうになる出来事の渦中にいる。そんな中で彼を脅かそうとしたのは、怪物たちだった。
 
 そこでゲラルトは狼男に貴様は人殺しだ! 俺たちも殺すつもりだろ! と問われるが、自分は理性のあるものを守る。ウィッチャーは人間と怪物の狭間にある存在であり、どちらにも脅威となるものを倒す、とウィッチャーのあり方を語った。
 
 といった具合に、世界の情勢やウィッチャーとしての生き方を本編ではないサブクエストで教えてくれる。
 
 寄り道というのは、大事なんだな、と教えてくれるゲームでもある。
 
 
◇これは私の物語
 
 1週目は、無事に欝々としたものではなく、ウイッチャーエンド。他2種類のエンディングはまた再びじっくりと見たい。
 
 このウイッチャーエンドを自分は最初に見られてよかったな、と思う。
 
 とても清々しい終わり方なのだ。
 
 〈古き血脈〉として囚われていたシリラが、今度は自身の選択した道を歩んでいく。シリラは、プレイヤーとは違って、自分で選択した道を歩いてはいなかった人物。追われたくもないワイルドハントに追われて、望んでない古き血脈というしがらみを背負っている。だからこそ、このウィッチャーエンドは、それらを俯瞰して、自身で歩く尊さを描いて終わる。
 
 これは私の物語なんだ、と口にした少女を前に主人公であったはずのゲラルト及びプレイヤーは胸を打たれたはずだ。この少女もちゃんと主人公なんだな、と。
 
 そしてケィア・モルヘンでの決戦やシリラの復讐劇には魅了され、人間ドラマがある。彼らは人間ではないけれど。
 
 
◇操作バランス
 
 残念な点をわざわざ上げたくはない。
 
 揚げ足取りの様なものだからだ。終わりよければすべて良しの精神で生きたいが、冒険中にゲラルトさんが面白い行動ばかりをするので、それらを踏まえてもう少しここは改善してほしかったな、という所を上げる。
 
 大きく一つ上げるなら、操作バランスだ。
 
 ゲラルトを歩かせるときに、きちんと自分が彼を操作している、という充足感や重みが希薄的なのだ。これは推測に過ぎないが、あの重みがない、ゲラルトの歩き方というか、自分の操作がきちんと行き届いていない歯がゆさは世界観に規定したものだと思っている。
 
 中世には詳しくないが、鎧とか背負った剣とか、そういうものを加算した操作性ではないのかな、とも解釈しているので、一概に改善点としては上げずらいのだが、僕は非常にそれが面白おかしいところになってしまっている、と感じた。
 
 ゲラルトを操っているのに、勝手に転がったり、ジャンプで喘いだり、下に降りようとすればローリングを始めたりと、もしかして僕はこの世界でゲラルトを操作するのが一番下手くそなのではないか、と若干思ってしまった。
 
 ただ、上述している通り、世界観に沿ってのものかもしれないので、それを評価点として加算すればやはりこのゲームは世界観の規模が桁違いだな、と思ってしまう。
 
 勘違いしてもらいたくはないが、ゲラルトが身勝手にローリングすることが世界観や史実などに沿っているとは思っていない。そこまで馬鹿ではない。そういう意味でもない。
 
 
◇プレイボリューム
 
 自分は後半以外のサブクエストをあまり集中的にやらなかったが、それでも65時間のボリュームを堪能できた。
 
 そして、DL版も含めてやればもっと楽しめるだろうし、装備やミニゲームのグウェントなどに集中するなど、多岐の遊び方を想定されている。
 
 化け物退治に勤しんだり、トリスが今どこで何をしているのか、ストーキングしたり、やり直して塔での一夜を想いだすのもいい。あの女であろうとする一面をもちながらも、ゲラルトの前では甘々な女性を魅せるトリスの会話に耳をより集中するのもいい。
 
 
◇終わりに
 
 原作は小説なので、一応それも貼っておこう。自分もウイッチャーは本作から入った口なので、小説で補完をしていく予定だ。
 wiki等で世界観をおさらいしていくのもまた面白い作品だ。

 

ウィッチャーI エルフの血脈 (ハヤカワ文庫FT)

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【ネタバレあり】死神は音楽を好み、晴れを見上げる『死神の精度』【感想】

 

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 『オール讀物』2003年12月号から2005年4月号にて(その中の一篇だけは『別冊文藝春秋』第255号・2005年1月に)掲載されていた伊坂幸太郎さんの計6篇の短編。

 

 それを群れとして作り上げた『死神の精度』を読み終えました。

 

 本作には「死神」が存在している。

 

 彼らは人間の世界に派遣され、調査対象である人間を一週間の中で観察し、死を見定める。対象者を「可」とした場合は八日目に死亡し、「見送り」とした場合は死なずに天寿を全うする事となる。そして、この「可」と「見送り」の明確な基準はなく、調査対象となる人間の基準に関しても興味がない、と言う。

 

 どこか人間と似ているような気もしてくるのがこの死神の特徴で、「理解はしていないけれど、仕事だからやっている」という空気がひしひしと伝わってくる作品なのだ。

 

 交差する人生の点も存在すれば、全く関係のない六つの人生が伊坂幸太郎さんによって描かれていく。

 

 本作は、音楽が好きな死神たちの怠慢な仕事ぶりが垣間見える。

 

 

伊坂幸太郎によって描かれる死神

 

 本作では死神の「千葉」が登場する。「千葉」の同僚も登場するが、苗字が町や市の名前であり、CDショップに集まったり、素手で人に触ろうとはしなかったり、と何とも死神と呼んでいいのか曖昧な奴らたちだ。

 

 死神と言ったら、既存の想像図として顔は髑髏で、首を刈り取るに相応しい大鎌を握っていて、ケタケタと笑いそうなものを、ある程度の人なら持っていそうなものだ。

 

 しかし、伊坂幸太郎さんの描く死神は、街中を歩いているどこかにいそうな等身大で登場する。それがまた奇妙でありながらも、この世界を成立させるには相応しくかつ愉快に伊坂幸太郎さん「らしさ」というもの明確に存在している。

 

 死神と人間の会話というものは面白い。

 

 調査の対象者として選ばれた「森岡」という人物と死神の「千葉」の会話で笑顔にさせてもらったシーンを紹介したい。

 

 はじめのうちは、彼らの目を気にして、マスクをどうしようか、などと気にしていた森岡だったが、そのうちに料理に夢中になり、途中からはすっかり素顔を晒していた。舌を鳴らす。「これは」とフォークに刺した肉を頬張り、「やばいくらいに」と顎を動かし、「うますぎる」と呑み込んだ。
 忙しなく咀嚼しながら、小刻みにうなずいている。
 私はと言えば、相も変わらず、食事という作業に興味が持てないため、盛岡の食べる様子を観察しながら、丹念に味わうふりをした。
 とりあえず、「これは」とフォークに刺した人参を頬張り、「やばいくらいに」と噛みながら、「うますぎる」と飲んだ。
 「馬鹿にしてんのか?」それを見ていたらしい森岡は眉をしかめた。「人参じゃねえか」
(本編362pより)

 

 背景をまず説明しよう。
 
 この話は第五篇の「旅路を死神」にて描かれるもの。登場している「森岡」という人物は自身の母親を殺害したのちに、ついでにそこらへんにいた若者も殺害している。


 そして指名手配されている「森岡」は死神の「千葉」と出会い、「千葉」の車で旅をする。

 

 そんな奇妙な間の中に存在するこの会話には、死神らしさとか殺人犯らしさとかは無縁のように感じさせる。ああ、これが伊坂幸太郎か、と納得すらさせてくる。

 

 引用させてもらった会話の中では、まるで「千葉」が何も知らない赤子が親の真似をするように、「森岡」の食事を観察し、行っている様子が描かれているようにも感じ取れる。


 これがまた良くて、死神にとって人参は牛肉と大差なく、それほどまでに食事というものに関心がないのだな、というのも伝わってくる。さすが、伊坂幸太郎さんが描く死神だ。

 

 

◇ヤクザノロマン、カタマリノロマン

 

 「弱者ってのはたいてい、国とか法律に苛められるんだ。そいつを救えるのは、法律を飛び越えた男なんだってな。」(本編69pより)

 

 伊坂幸太郎さんという作家は、ロマンを追求し、言葉にしてしまう作家でもある、と僕は捉えている。例えば、『陽気なギャングが地球を回す』では「犯罪の中の犯罪」を魅せつけてきた。
 
 そうだ。伊坂幸太郎さんにはロマンがある。ロマンの塊だ。

 

 上記の引用文は本作第二篇「死神と藤田」という物語の中で「藤田」というヤクザの中のヤクザに対して述べられた言葉だ。「藤田」は正に弱きを助け、強きをくじくという男そのものだ。

 

 この物語で登場するのはヤクザの中のヤクザ「藤田」とその部下である「阿久津」。藤田が探しているヤクザの「栗木」。そして死神の「千葉」だ。

 

 「藤田」は別の組である「栗木」の部下と揉め、「栗木」はその後、「阿久津」の兄貴分を殺している。「藤田」の場合は、「栗木」の部下が年寄りを路地裏に引きずり込み、金を奪う行為を目撃したために、それが許せるはずもなく、喧嘩をしたと述べている。

 

 「栗木」の場合はそうではなく、言いがかりで「阿久津」の兄貴分が殺害されてしまっている。それが「藤田」にとって許せるはずもなく、「栗木」を一人で殺そうとしているのだ。

 

 物語終盤で「藤田」の部下である「阿久津」が「栗木」に捕まってしまう。その隣には「千葉」も捕まってしまっている。死神も人間に捕まることだってある。

 

 一番この物語で格好いいのは、この捕まった所で魅せつけられる。

 

 場面は「阿久津」が殴られながらも「藤田」の電話番号を「栗木」に対し言わないようにしているところだが、「千葉」があっさりと伝えてしまうところ。

 

 「藤田の電話番号を教えてやる」私はそう言った。(中略)おっさん何を考えてんだ、裏切るのかよ、と絶叫した。
 私は暗記している携帯電話の番号を、口にする。阿久津が、子供が啼くような呻きを発し、それがおかしいのか離れた場所から誰かが笑う声もした。
 坊主頭が、栗木を振り返り、うなずいた。そして、テーブルの上にある電話に手を伸ばすと、すぐにボタンを押した。「嘘だったら、ぶっ殺すぞ」と私に凄んだ。
 「おっさん、裏切りやがったな」阿久津は、喉から血を出すかのようだ。
 「てめえ」阿久津が奥歯を砕くような、顔になった。「それがこいつらの狙いなんだよ。藤田さんを殺してえのか」
 私はそこで声を落とし、疑問を口にさぜるを得ない。「おい、藤田が負けるのか?」
 「え?」と阿久津が目を見開く。
 「おまえは、藤田を信じていないのか?」今まで散々そのことを、私に訴えてきたではないか。(本編90pより)

 

 この言葉と会話がとてつもなく恰好良い。


 「阿久津」にとって「藤田」は『本当の任侠の人』として捉えら、尊敬されている。


 その「阿久津」が大勢の男に囲まれながら、「藤田」を庇っている。こんなに多かったら勝てはしない、と死んでしまいだろう、と思いながら電話番号を吐くことはなかった。

 

 だが、死神である「千葉」は関係なく、電話番号を吐いてしまう。
 死神なのだから、人間を売ったとか、嫌気がさして電話番号を教えたとか、そういう類ではなく「阿久津」が「藤田」は負けない、と言っていたことを何の疑いも、意味も理解しないままに記憶していたために、電話番号を教えてしまう。

 

 弱気になっていた「阿久津」に、土壇場でそんな考えは思いつきはしない。考えは浮かばない。「藤田」が勝てるとは思えない。けれど、死神は違う。

 

 信頼という人間らしい部分など微塵もない死神は、誰かの言葉を記憶しているだけなのだから、「勝てるんじゃないのか?」と問いかける。

 

 「藤田さんが負けるわけがねえんだ」と「阿久津」が最後に口にする。

 

 この死神は、良い死神であり、人に何かを与えているのだろう。それはロマンなのかもしれない。

 

 

◇「可」を押された者は必ず、哀しい結末を辿っている?

 

 この物語で面白いのが、死神の「可」と「見送り」だ。
 それが死神の仕事とされており、決まって彼らは対象者を「可」としている。


 そうすることで「可」とされた対象者の人間は必ず八日後に死んでしまう。

 

 そんな中で「千葉」は唯一「見送り」をした対象者がいる。

 

 裏か表か。それで決めようと思った。「可」にすべきか、「見送り」にすべきか。彼女は死ぬのか、それとも寿命まで生きるのか。どちらにせよ、私にとっては大した違いはないのだし、コイントスで充分にも思えた。
 硬化を見る。表だった。あれ、と私は首を傾げる。表の場合は、「可」にするつもりだったのか、「見送り」にするつもりだったのか、忘れてしまった。雨がさらに勢いを増してきた。それに小突かれるような気持ちで、もういいか、と決めた。いいか、「見送り」で。(本編47pより)

 

 そんな適当でいいのか、死神。
 思わずそう言ってしまいそうになる仕事ぶりだ。

 

 この時に「見送り」になったのは、第一篇「藤木一恵」だ。彼女は後に第六篇「死神対老女」にて断片的にだが人生が語られている。


 そんな彼女の人生は「遅咲きのアーティストだけど、わたしがまだ若い頃、二十代か三十代の頃かな、すごく話題になったんだから。でも、今も古びてないでしょ」と語られるほどなのだから、立派なものなのだったのだろう。いや、彼女の人生は主観的に捉えることは甚だ難しいのだが。

 

 だが、きっと彼女は天寿を全うしたはずだ。


 しかし、「可」とされた人物たちはどうだろうか。

 

 決していい人生だったか、と言われたら難しい。これも主観的に語るものではないような気もする。
 だが、哀しい結末なのは間違いない様に思える。

 

 第二篇「死神と藤田」での担当者はヤクザの中のヤクザである「藤田」。
 第三篇「吹雪に死神」での担当者は「田村」。
 第四篇「恋愛で死神」での担当者は「荻原」。
 第五編「旅路で死神」での担当者は「森岡」。
 第六編「死神対老女」での担当者は「古川」。

 

 本作では具体的な結末を意図的に書いていないように思える。
 なので、どうなったか、ではなく、全体的にこうなったのかな、という推測でしか語れないところが面白い。それを知るのは死神だけなのだ。

 

 「藤田」は部下を敵対している「栗木」の元で拷問され、大勢の中に殴り込みに行く。
 「田村」は自身の息子を死に追いやった女性を殺そうと画策するが、その最中に夫を亡くす。
 「荻原」は好きになった人を救うために死んだ。この時に助けたのが「古川」。
 「森岡」は勘違いで母親と関係な一人を殺害する。
 「古川」は多くの大切な人を無くしている(正し過去に起こった事なので間接的問題)。

 

 出来事を整理するとこのようになっている。


 第六篇で「千葉」が担当した「古川」に関して言えば、過去において間接的に関係していた死神によって不幸な出来事が連鎖的に起こってしまっている、というものであるので、哀しい結末を彼女自身が最終的に送ったのかは、判断しづらい。
 
 しかし、

 

 「そりゃ、死ぬのは怖いけどさ」と恐怖の欠片も滲まない口調で続け、「もっとつらいのは」と首を振った。「まわりの人間が死ぬことでしょ。それに比べれば自分が死ぬのはまだ、大丈夫だってば。自分の場合は、哀しいと思う暇もないしね。だから、一番最悪なのは」
 「最悪なのは?」
 「死なないことでしょ」彼女はアンテナを張るかのように、指を立てた。「長生きすればするほど、周りが死んでいくんだよね。当たり前のことだけど」
 「その通りだ」
 「だからさ、自分が死ぬことは、あんまり怖くないよ。痛いのとか嫌だけど、やり残したこともないしね」
 「ないのか」
 「あるかもしれないけど、それも含めて、納得かもしれない」
 (本編316pより)

 

 と「古川」自身が語っているので、現在進行形での悲しみはないのだろう。
 そこから察するに、彼女は「見送り」になるのではないかな、と思ってしまう。


 晴れも見れた「千葉」のことだ。コイントスをするまでもなく、太陽が表に現れたのだから、「見送り」でいいんじゃないか。

 

 「古川」以外は、基本的に悲しみを纏った結末を描かれている。

 

 死神の「可」はカナシミの「可」なのかもしれない。

 

 

◇終わりに

 

 伊坂幸太郎さんが死神を描けば、同時に天使的な側面も存在するのだな、と感じました。

 

【ネタバレあり】伊坂幸太郎さんが描く強盗の爽快感『陽気なギャングが地球を回す』【感想】

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 伊坂幸太郎さんの三作目『陽気なギャングが地球を回す』を読みました。

 

 『重力ピエロ』は同僚に貸しているので「あとがき」があったのかは定かではないのですけれど、『アイネクライネナハトムジーク』には収録されているのは見直して確認しました。

 本作にも「あとがき」があるのですが、とても陽気な伊坂幸太郎さんを見ることができます。

 

 最後に銀行業務に関してアドバイスをくれた、友人の長尾重延君、どうもありがとう。四人の銀行強盗の計画が成功したのも、失敗したのも、君の責任ではありません。(「あとがき」より)

 

 アドバイスをした友人さんが責任を負わなくてよかった。

 

◇強盗の完成系

 

 本書で解説をしてくださっている、村上貴史さんも言っている事だが、伊坂幸太郎さんの作品内には強盗という役柄が頻出する。それがいかにもこの世にはなくてはいけないように、日本社会に従属するサラリーマンが満員電車になろうとも、電車を必要としているように、伊坂幸太郎さんが描く世界には何かを盗むという性質が必要なのかもしれない。

 

 そして今回、盗むというのは本題となっている。

 

 登場するのは、

 

人間嘘発見器「成瀬」。

正確な体内時計「雪子」。

演説の達人「響野」。

掏りの天才「久遠」。

 

 この四人が繰り広げる銀行強盗がこれまた綺麗なのだ。僕は熱弁する「響野」が好きで仕方ない。彼は『砂漠』で登場した西嶋に似ているのだ。人格とか、そういった根本ではなく空気感が似ている。どこか落ち着く。

 

 これまで伊坂幸太郎さんが描いてきたのは――これまでとエラソーに豪語しているが、これまでというのは僕が読んできたこれまでだ――盗みを働いていた人物だったり、空き巣をする人物であって、物語自体の主軸が「何かを盗む」という事にはなっていなかったと、個人的には解釈している。

 

けれど、本作では伊坂幸太郎さんが描く怪盗、ギャング、強盗の完成系が見られる。

 

『世の中には犯罪らしい犯罪が必要なんだ』(本編255pより)

 

 そうだ。この物語には、そこにロマンがある。

 ロマンはどこだ。

 

◇「成瀬」という格好良さ

 

 そして「嘘」というのも伊坂幸太郎さんの描く世界の根幹の一つなのかもしれない。

 

 著者の第一作目である『オーデュボンの祈り』にて登場しているのが、嘘しか言わない画家の園山だった。

 

 そして本作で登場したのは、嘘をつくのではなく、嘘を見抜く力を持っている「成瀬」という人物だ。

 

 この人物が何とも格好いい。何というか、これまで読んできた伊坂幸太郎さんの描いていた主人公像とは違い、ルパンとコナン君を足して、余分な要素を薄めて出来上がった男、といった印象を得る。

 

 彼がこの物語の構造を把握しているので、読者は余計な詮索をせずとも彼が回答をしてくれる構図は、とても読みやすく、手に取りやすい。

 

 何といっても人の嘘を見抜くのだ。これほど格好良く、等身大で欲しくなる能力というのはないだろう。人の心というのを人が一番知りたがっている。

 

 物語には「成瀬」のような冷静でクールな、そして読者に寄り添って何もかもを見透かしているような人物というのは時に必要だ。

 

 こういう人物はカタルシスを産みやすい。そして何より、恰好良い。

 嘘を見抜く強盗で格好良いのは、「成瀬」ぐらいだ。

 

 勿論、恰好良いのは「成瀬」だけではない。僕は「響野」も恰好良いと思っているのだ。

 

◇辞書と標題

 

 本作には所々に辞書から引っ張ってきた言葉が存在している。

 「あとがき」に記述されているが、これは広辞苑から伊坂幸太郎さんが拝借しているもので、更に自分で脚色をしている言葉たちだ。

 

 例えば、

 

 はやし【林】①樹木の群がり生えた所。②転じて、物事の多く集まった所。③姓氏の一。中国系の姓といい、特に林羅山に始まる江戸幕府の儒官の家が有名。

 ―たつお【林達夫】現金輸送車襲撃犯人の一人。運転手。トカゲの尻尾。

(本編117pより)

 

 

 こういった具合にいくつも点々と存在する言葉たちは、物語を読んでいく上でとても先々の事を予測させてくれるものであったり、一つの情報としての役割を担っている場合がある。

 大抵は伊坂幸太郎さんのユーモアな意味合いに満足する。

 

 そして各章の標題にも注目をすると展開というものの予測がある程度可能になっている。

 

 解説にも記述されているが、本作を伊坂幸太郎さんは前半200枚ほどの原稿を二度没にして、三度目でスムーズに物語が流れているな、と思えたという。

 その苦肉の努力――本人からすればそれが楽しいのだと思う――が読みやすさに伝わっているのだろうな、と思われる。

 

 読みやすさを産むには、そうした言葉の研磨が必要なのだろう。

 

◇終わりに

 

 本編内で「響野」が、

 

 「そもそもだ、強盗犯を、『ジャック』というのは、昔の馬車を襲った強盗たちが、『ハーイ、ジャック』と挨拶をして、襲撃してきたのから始まっただけでだ、意味なんてないんだよ」(本編52pより)

 

 と言っていたが、本当のようだった。